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十牛図とナーダ音

2019-07-31 記
トピック:スピリチュアル: 十牛図

幾つかバージョンがあるようですので複数引用します。

■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
尋ねゆく みやまの牛は見えずして ただうつせみの声のみぞする
尋ねいる 牛こそ見えぬ夏山の こずゑにせみの声ばかりして
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)

■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)心身ともに力尽きたが、見当もつかない。ただ楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の声を聞くばかりだ。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)

■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)力尽き元気も涸(か)れ、求める牛は見つからない。聞こえるのはただ夜の森に鳴く蝉の声ばかり
(「究極の旅(OSHO著)」より)

■第三図「見牛(けんぎゅう)」
青柳の糸の中なる春の日に つねはるかなる形をぞ見る
吼(ほ)えけるをしるべにしつつ荒牛の 影みるほどに尋ねゆきけり
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)

■第三図「見牛(けんぎゅう)」
声に従って入り口に足を踏み入れれば、見の境地でその源に逢う。
(中略)枝に止まる うぐいすの声が聞こえる。
(中略)荘重なその牛の角は描こうとしてもなかなか描けない。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)

■第三図「見牛(けんぎゅう)」
私は鶯(ナイチンゲール)の歌を聞く。
(中略)その声を聞けば、人はそれの源を感じ取ることができる。六感が溶け合うやいなや、もう門の中に入っている。どこから入ろうと、人は牛の頭を見る。
(「究極の旅(OSHO著)」より)

これらに共通しているのは「蝉の音」と「鶯の鳴き声」です。インド各国では鶯によく似たナイチンゲールと言う鳥がいるそうですので、日本語で考えるならば全部ウグイスでいいと思います。

先日ナーダ音について引用した中に7種類の音に関する言及がありますが、その1番目の音がそのものズバリ「ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声」で、一致しています。ですので、仮説ではありますが、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」はナーダ音のことを言及しているのかなと思います。

一方、第一図「尋牛(じんぎゅう)」の「蝉の音」ですが、聖典にはそのものズバリはありません。私自身の記録で言うと一番最初に聞こえてきたのが(一番最初に気づいたのが)「チ・チ・チ・チ・チ」と言う鶯の声っぽい音でしたので、それ以前は気付きませんでした。ですが、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」を始め各種書物を読むと必ずしも先に引用した7つの順番とは限らないようですので、人によっては「蝉の音」が最初に聞こえるのかもしれません。

「蝉の音」がナーダ音だと言う確証を得られませんでしたので、もしかしたら「蝉の音」もナーダ音かもしれませんがの判断は保留で、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」がナーダ音だと(個人的には)考えることにします。

ちなみに、上記で引用した本のどれにもこれらの音がナーダ音だとは書いてありませんでした。

唯一それらしき詩の引用が「参禅入門(大森 曹玄 著)」の第三図「見牛(けんぎゅう)の説明の中にありました。

「やみの夜に、鳴かぬ鳥の声きけば、生まれぬさきの父ぞ悲しき」(一球禅師)というが、「凡ての牛が黒くなる暗夜」に心牛の声を聞くことができれば、それが「源に逢う」というもので、自己の根源にふれたといえよう。(中略)見牛とは、この源に逢うこと、つまり見性のことである。ただしこの段階では見ることは見たのだが、霞の中にボーッと牛の影を見たのか、同じ見たと言っても、その見た程度は人によってさまざまであろう。

このあたりは微妙なところですので、わかっていても書物にははっきりとは書かなかったのかもしれませんね。

先日の十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの考察の通り、第三図「見牛(けんぎゅう)が自己の本性というかアートマンを見る段階である、と言うのは共通していそうです。ただ、十牛図には幾つかバージョンがあるようですので、これと一致していないものもありました。第三図の説明で「牛の姿をはっきりと描けない」とか「はっきりとは見えない」と言っているのは、この段階ではアートマンをしっかりと見ることができない、と言う点でも共通しています。



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