天のエネルギーを上半身に満たす

2019-09-30 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

天のエネルギーを下ろすのは瞑想中でなくても日常生活しながらでも簡単にできる感じですので、思い出す度に度々エネルギーを下ろしていました。
それと共に、今まで使っていた地のエネルギーと言いますか下半身のエネルギーと天のエネルギーの質の違いが分かってきました。

お腹のあたりに溜まっているムーラダーラやマニプラなどのエネルギーは質的に地中のエネルギーを少し純化したものですね。

地のエネルギーはお腹のエネルギーよりももっと泥っぽくて、ちょっと子供っぽい匂いがします。ちょっとオシッコ臭い子供のような匂いとヘドロの匂いとが合わさったような、あまり快適ではない匂いです。それが地のエネルギーとそのエネルギーの「匂い」です。地中にあるエネルギーですね。

その「地」のエネルギーを純化して、匂いがかなりなくなっている状態のものがお腹のあたりに溜まっています。それを更に純化したものが胸のアナハタにあって、更に純化したものが頭のあたりにあるようです。ですので、以前にも書きましたように下半身のエネルギーをサハスララにいきなり上げるのではなく一旦頭の下半分・前半分くらいに集めてから改めてサハスララに上げる、というようなことを以前はしていたわけです。そのことで、比較的荒いエネルギーをいきなりサハスララにあげるのではなく段階的に純化しつつ上げることができていたわけです。その時は天のエネルギーにはまだ繋がっておらず、サハスララのエネルギー・ルートが開いていない状態でしたのでそうやって下の方からサハスララにアクセスしようとしていたわけです。そうして、後頭部のあたりにブロックのような硬い部分があり、それにエネルギーをぶつけて柔らかくしてブロックを解除し、越えようとしていたわけです。

今はそのブロックが(全部かどうかは分かりませんが)一応は外れてエネルギーが通るようになりましたので、地のエネルギーを頭に上げるよりは、エネルギーの質的に言っても天のエネルギーをサハスララ経由で頭に入れる方がスッキリするような気がしてきました。

そうしているうちに、天のエネルギーを頭だけでなく上半身にも少しづつ満たすようになりました。

ここで、以下のことが起こりました。

・エネルギーを何度も頭に充満させていたら、眉間の少し奥あたりで頭痛がしました。偏頭痛とは違う頭痛で、不思議な頭痛です。これが噂に聞く、スピリチュアルな成長に伴う頭痛というものでしょうか? 単なる普通の頭痛かもしれませんので様子を見ています。
・首の後ろあたりにエネルギーを下ろした瞬間に突き刺すような痛みが一瞬走り、やがて消えました。「ライトボディの目覚め」によりますといくつかの原因が考えられ、エーテル的に何かがブロックしている場合、あるいは、成長に伴う痛みである、と解説されています。

■エネルギー酔い
天のエネルギーを頭に使い出したら地のエネルギーを頭に上げる気がほとんどしなくなりましたが、試しに再度下半身から地のエネルギーを頭まで上げてみたところ、泥っぽいエネルギーが頭に入ってきた瞬間に少しヘドロの匂いを感じ、少し吐き気がして若干のエネルギー酔いみたいな感じになってしまいました。つい先日まで上げていた地のエネルギーの筈なのにこんなに違いを感じるなんて不思議です。

今までは天のエネルギーが使えなかったから仕方なく地のエネルギーを使っていただけで、エネルギーの質が違うので地のエネルギーは本来頭に合わないような気がしてきました。頭には天のエネルギーを詰めるのが良さそうです。もしかしたら今までサハスララの瞑想で安定感を失っていたのは地のエネルギーの質が原因なのかもしれません? 以前にサハスララに関する瞑想の記事などでも書きましたようにサハスララに集中する瞑想には色々と注意が必要ですが、もしかしたら、それはエネルギーの質とサハスララがほとんどの人には開いていないから、というところが本当の理由なのかもしれません。まあ、私も完全に開いた感じはしていなくて少し開いたというくらいな気がしていますが。

天のエネルギーを使っていてもまだ慣れないせいか少し空間が揺れている感じが続いていますが、天のエネルギーであれば地のエネルギーの時のような吐き気はありません。エネルギー酔いはちょっとはありますが。エネルギーを高めることによる酔いはどちらのエネルギーでもありそうな感じです。地のエネルギーは少し匂いと吐き気があるということなのかもしれません。

仮説ですが白隠禅師の禅病もこの辺りを使って説明できるかもしれません。エネルギーの質とサハスララの状態によって吐き気があったりエネルギーが詰まったりしていると禅病っぽくなることは多いにあるような気が致します。

■内なるガイドのヒント
内なるガイドが言うには、この天のエネルギーを使う時にある程度の純化を済ませて雑念を落としておかないとうまくエネルギーが流れない、とのことです。

瞑想で天のエネルギーを使う手法は数多くありますが、先に心の平穏を達成しておかなければ感覚が鋭くなるにつれて段々と苦しくなる、とのことです。その例として、超感覚が目覚めたいわゆるサイキックが能力を優先させたことにより情緒不安定に悩んでいる、などの事例があるようです。本来は天のエネルギーの活用の前に心の平穏を達成しておくべきで、そうであれば何ら苦しむことなく先に進める筈なのに、能力を優先させたことにより苦しんでいる人が大勢いる、とのことでした。

心の平穏、いわゆるヨーガスートラ的に言えば心の死滅ですしヴィパッサナー的に言えば観察瞑想なわけですが、そのレベルの心の平穏が先でないと苦しむだけだ、とのことでした。

■首の突き刺す痛みとエネルギーのブロックの関係
首の突き刺す痛みがあった後、首のエネルギーが上下に通りやすくなったような気がします。であれば、首にあったエネルギーのブロックが一つ外れたということのような気が致します。

先日まで胸単体および頭単体でそれぞれエネルギーが充満してプクッとした感覚があって、特に頭の方はエネルギーが高まるにつれて圧力が高まっている感じがありました。それは、上方向にはサハスララにブロックがあって、下方向にはおそらく首のあたりでブロックがあったのかなと思います。首のあたりのブロックは半分ブロックされていたような雰囲気です。エネルギーは一応下から頭にまで入っていましたから。

首の突き刺す痛みがあってエネルギーのブロックが外れたことにより、頭でプクっとした圧力の感覚はあまりしなくなりました。おそらくは、先日までは頭のエネルギー(の圧力)を高めることでサハスララと首のブロックを押して崩そうとしていたような状態だったのかなと思います。それが今日はブロックが一段と外れて、エネルギーが上下に通りやすくなったのかなと思います。

■覚醒でもなく、ぼーっとしているわけでもなく、愚鈍でもなく、彷彿でもなく、落ち込んでおらず、喜んでおらず、目は覚めているが活動的でもなく、眠りでもない瞑想
この天のエネルギーを使って瞑想をしていたら、このような状態になりました。意識ははっきりしているのですが、ピカーっと光るような覚醒状態ではなく、かと言ってどんよりとしたぼーっとした愚鈍な感じでもなく、かと言って彷彿でもなく、かと言って落ち込んでいるわけではなく、かと言って喜んでいるわけでもなく、活動的というほどでもなく程々に目が覚めており、眠りではない、そのような不思議な瞑想になっています。なんでしょうこれ・・・。言葉で言い表すのがとても難しいです。

基本として、この瞑想の間は想念がかなり減っていて「いま」に生きている状態であるわけですが、状態を言い表そうとすると上記のようになってしまうのです。

昔は「いま」に生きる瞑想をすればある程度の彷彿と永遠を感じていたわけですが、どうも、今日の「天のエネルギー」を使った瞑想ではそんな感じになりませんでした。

なんでしょうね、これ。

仮説では、おそらくは世界が広すぎて認識できていないのかな、と。昔は割と世界が狭くて「いま」に生きたとしてその人生観といいますか瞑想の世界は割と狭くて、狭いとは言いましても広くて永遠っぽい空間を認識することができて「彷彿」とか「永遠」とか思っていたわけですが、今はあまりにも広い空間に投げ出されてしまったので、一体どういうことかさっぱりわからない・・・ という状態なのかな? と。そういう仮説です。

まあ、相変わらず様子見なわけですが。