先日の続きです。
内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。
今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。
もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。
それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。
今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。
・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)
・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。
・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。
・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。
論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。
今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。
スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。