チベットの古代ボン教の教えによりますと、以下のようにあります。
チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
これに関して、以下のように説明されています。
・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。
・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。
・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。
・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。
「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より
これは興味深いですね。
西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。
それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。
ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。
一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。
確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。
であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。
体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。
チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。
身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。
私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。