これら2つに共通点があるような気が致しました。
ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。
これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。
以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。
それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。
ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。
ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。
ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。
どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。
今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。
上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より
これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。
三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。
ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。