ゾクチェンの3つの境地。シネー、テクチュー、トゥガル

2019-11-21 記載
トピックスピリチュアル

先日の続きです。

「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」によりますと、ゾクチェンには3つの境地があるようです。

シネーの境地
テクチュの境地
トゥガルの境地

同書からポイントを書き出してみます。

シネーの境地
くつろぎ。穏やかさ。
インドの言葉で「シャマタ」
想念や雑念の減少
集中の対象がある。

テクチュの境地
突破、の意味。シネーの境地の突破。二次元的な心の動きの突破。
集中していない。
思考や分別が消え去っても存在している「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態。
対象と心の区別ができなくなる。

トゥガルの境地
跳躍、の意味。
ティクレ(光滴)が見え始める。ティクレとは光が輝き出すこと。瞑想の初期に現れた光とは別物。
輪廻から涅槃への跳躍
実体性から空性への飛躍。

さて、ここまで読むと、見えてくるものがあります。シネーの境地とはいわゆるタマスの瞑想のことかなと思います。そして、テクチュの瞑想はラジャスの瞑想。そしてトゥガルはサットヴァな瞑想に相当すると解釈できそうです。仮説ですけどね。

瞑想をしても多くの場合はタマスの瞑想であるシネーの境地で止まっている、とは同書でも指摘されています。とは言いましても、それはそれで心が穏やかになって、瞑想を始める以前と比べたら随分と爽やかに人生を過ごせますので、一般社会を快適に過ごすにはそのくらいで十分なのかもしれませんが。

テクチュの境地では上に記しましたように「対象」と「心」の区別ができなくなる、とありますので、これは一般的なサマーディの定義と似ているように読み取れます。サマーディは色々な種類がありますが、一般的には「見るもの」と「見られるもの」の区別がなくなって一体化する状態だと解釈されていますので、一般的なサマーディ相当がテクチュの境地なのかなと読み取れます。

そして、同書によればテクチュの境地の瞑想を続ければ一続きのものとしてトゥガルの境地に導かれるとありますので、まずはテクチュの境地に至るところが一つの壁であるようです。

続き: テクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験