チベットの第三の眼の伝説(同テーマ&時系列の前記事)

ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない

2019-11-29
トピック: スピリチュアル

先日のタマスな瞑想のお話の続きです。

タマスな瞑想は眠りに似ていて、ちゃんと瞑想しているのかタマスの「無」の中に落ち込んで眠りのように無意識になってしまっているのか特に最初は見分けがつかないことがあったように思います。無意識で時間が凄く過ぎているのでしたらタマスな瞑想に落ち込んでいる可能性があると思います。

最初は雑念がそもそも多いのでこの種のタマスな無意識な状態にすらならなかったように思います。タマスな無意識、いわゆる「無」の状態で安らぐことができるのは、それはある程度の成長であると思うわけです。

しかし、その「無」の状態にいつまでも落ちていたら成長がない、というのも確かだと思います。古来、ヨーガの古典はこの種の眠りに陥ることを諫めておりましたが、私が思いますに、ずっと落ちているのはよろしくないものの、通過点としては通る道なのかなと思っております。

そして、私の場合ですが、先にも書きましたようにこの種の「無」の瞑想で無意識に寛げるようになってから割とすぐ、数日か1週間経ったか経たなかったくらいでナーダ音が聞こえてきましたので、その時点で、「無」の瞑想に落ちることをナーダ音が妨げるようになってしまったのです。

これは当時としてはなんだろう、と疑問に思ったものです。せっかく「無」の心地よい眠りのような無意識の瞑想ができるようになったのに、早々にナーダ音がその邪魔をするようになったのですから。

しかし、今から思えば「無」とはタマスな無意識の瞑想に眠りのように落ち込んでいたわけであって、ナーダ音が無意識の眠りに落ち込むのを助けて意識が保つように助けてくれていたように思います。

ですから、ナーダ音は最初は妨げかとも思ったのですが、今から思えば意識を保つための助け舟だったわけです。

その意識の保ちとはヴィパッサナー的な観察瞑想に繋がるのですが、瞑想の目的地は「無」になって無意識に落ち込むことではなく、全てをあるがままに見つめて、見つめつつも心は風のない水面のように平らに保つことでありますので、その目的地に到達するためにナーダ音はとても助けになったわけです。

ナーダ音は瞬間瞬間に変化して心を惹きつけて離しませんから瞑想中はナーダ音に集中する瞑想から始めました。これはハタヨガプラピディカにも書かれてあるナーダ音を観察する瞑想です。

やがて雑念が減り、心が穏やかに平らな水面になるにつれ、ナーダ音に心が引き寄せられなくなりました。心がナーダ音を聞いてはいますし、存在を意識することはあるのですが、以前のようにナーダ音に心を縛り付けておく必要はもはやありません。

しかし、特に最初はナーダ音が意識を保つ助けになりましたし、雑念から心を救ってくれる助け舟になっていたわけです。



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