生きているが生きていない人生

2020-01-16 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。

人は、生きているが生きていない。
人は、ものを見ているが見ていない。
人は、人を見ているが見ていない。
人は、歩いているが歩いていない。
人は、食べているが食べていない。

・・・たしか、そんな感じの言葉だったと思います。

とても昔、20~30年前にどこかの本で読んだのか、あるいは、誰かが言っていたのか、そんなことをふと思い出しました。

どうやら、その境地とは ヴィパッサナー(観察) あるいは サマーディ のことを意味していたのだと今はわかります。

ヴィパッサナー状態あるいはサマーディの状態であれば、生きていることが瞬間瞬間の経験になりますが、それ以前であれば、生は鈍い体験にしかなりません。

ヴィパッサナー状態であればスローモーションで認識されるほどの細かな経験になり、それ以前であれば遥か昔のカクカクなアニメあるいは4コマまんがのような経験になります。

そのことを、昔の人は上のように表現したのかなと思います。

上の文は詩ですので論理的には何のことを言っているのかわかりませんが、それを理解するにはヴィパッサナーの状態が必要だったわけです。

そういえば、この話を聞いた時、同時に次のようなことも聞きました。「頭で考えるんじゃない。感じるんだ」、と。 スターウォーズやニューエイジや禅の好きな人が言いそうな言葉ですが、感じたところでわからない人にはわからないものです。それよりも、事細かにきちんと説明してくれた方がよくわかります。

今となれば日常生活上のヴィパッサナー瞑想を経験できるようになってこのことがわかるようになりましたが、かと言って、上の詩のような文を改めてみたところで「感じる」ことでその内容を読み解くのは今ですらかなり困難です。「感じる」ことではなくて、自分の経験と照らし合わせて論理的に組み立てるとこのことを言いたかったことがわかるのであって、当時は、「ふうん。感じることでわかるんだ???」と謎な感じを受けていましたが、今わかるのは、「感じることでは理解できないので、感じようとして理解できなくても全く問題ない」と言うことでした。「感じる」というのは結果であって、ヴィパッサナーに至るための方法ではなかったわけです。結果として感じられるようになるということであって、感じていれば辿り着くわけではないのだと思います。

今わかるのは、スピリチュアル業界にはわかるようなわからないようなことをあれこれ言う人が大勢いますので、あまり事細かに付き合う必要はない、ってことですね。詩的表現は目を引くものがありますけど、実際の感覚とは随分と違うなあ... というのが感想です。詩的表現を読むと、本当はわかっていない人が分かった感じになるのも良くない気もします。

言葉の追求をしすぎても仕方がなくて、自分の状態が先にふと変化して、その経験を元に表現をしたり、その経験に照らし合わせて書物に書かれてある内容を読み解く、と言うのが良い気がしています。

コンサルとかカウンセリングと一緒で、書籍や文章というのは外側にあるものですので「確かめ」のために使う、という感じですかね。本当の理解は自分にしか作り出すことができないのだと思います。ですが、幅広い見解を持つため、あるいは、自分の状態を確認するために外部の情報は使えると思います。



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