ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、 世間一般でヴィパッサナー瞑想というと体や息を観察することだと言われているように思います。
ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。
これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。
ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。
目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。
ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。
それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。
実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。
私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。
個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。
ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。
例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。
一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。
ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。
ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。