ゾクチェンの3つの境地に当てはめればテクチュの境地の後にトゥガルの境地があるわけですけれども、おそらくは私はテクチュにいてこれからトゥガルかな、ということはここ数ヶ月の考察で推測してきたわけですけれども、最近の心が水面のように穏やかになるのは比喩ではないという経験あるいはヴィパッサナー的な「識」の状態に関して、面白い記述を本に見つけました。
同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。
心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。
ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。
ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。
妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
なるほど。道はここに示されたような気が致します。