テクチュでの観察がヴェーダンタの「知識」に繋がる

2020-03-02
トピック: スピリチュアル

ヴェーダンタによって悟りの道を歩んでいる人は、「行為ではなく知識でのみ悟ることができる」とよく言います。

これは、なかなかに謎めいた発言です。

ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。

同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。

これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。

ここで謎なのは以下の3つです。
・知識
・修行・行為
・瞑想

ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。

まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。

「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。

・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。

ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。

よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。

このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。

ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。

ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。

後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。

おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。

ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。

修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。

瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。

どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。

テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。

ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。

このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。

1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。
2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。
3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。

そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。

1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。
2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。
3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。

であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。

1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。
2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。
3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。

この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。

1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。

一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。

この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。

・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。

ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。

例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。

3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。

1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。

しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。

そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。

インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。

ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。

これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。

その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。

おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。

例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。

そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。

私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?

現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。

そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。



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