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ヴィパッサナー瞑想と称してサマタ瞑想を行う人たち

2020-03-06
トピックスピリチュアル

ヴィパッサナーと思考の停止について以前書きましたけど、おそらくはヴィパッサナー瞑想の流派は分かっていながらヴィパッサナー瞑想と称して実質はサマタ瞑想をさせているのだと思われます。

これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。

と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。

ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。

まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。

そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。

その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。

最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。

例えば、本の最初の方に次のようにあります。

落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」

それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。

ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」

これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。

そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。

実際、最後のQ&Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。

どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。

グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。

であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。

・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。

まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。

アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。

かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。

まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。



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