聖なる器としての体

2020-03-31 記
トピックスピリチュアル

先日の続きです。

体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。

私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。

その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。

いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。

ヨーガの定義には以下のようにあります。

1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」

この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。

内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」

これは、文字通りそういうことなのかなと思います。

魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。

まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。