そんなことが言えるのはいわゆるヴィパッサナー状態であるテクチュ以降です。一般受けは良いですけど、こんなことを言う人のことを真に受けていたら成長しません。
少し前まではこのことがしっくりこなくて、「何かをしなくてはいけないのでは?」と言う思いが常にどこかにありました。それはそれでその時々としては正解で、何かをしなくてはいけないと思うのであればそれは正解だったと思うのです。
ですが、世間一般で「わかりやすい」教えというものがあって、例えば瞑想であれば特に難しいことを考えなくてもただ座って自然に瞑想を続ければ良い、みたいなお話があるわけですけれども、それは最初は理解しやすいですけど、実際やってみるとそんなにうまくいくわけでもないわけです。
この種の「簡単」なお話は、「最初」と「ある程度の経験者」にとって有益なのではないかなと思います。
最初のとっかかりとしては簡単でよくて、次第に、その簡単な境地こそが本質だとわかってゆくのだと思います。
最初は本に書いてある「三昧(サマーディ)を続けるだけで導かれてゆく」ということを読んでも「なんのこっちゃ」という感じでしたけど、最近は、特に難しいことをしなくても日々、瞑想が少しずつ深まってゆくような気が致します。厳密には日々というよりも数日あるいは1週間とかことあるごとに違いがわかるようになってゆくわけですけれども、比喩の表現としては日々深まってゆく、と言っても間違いではないと思います。
ゾクチェンでセワ(混ぜる)というお話にしても、読んだときは「どういうことでしょう?」と思ったものですが、実際やってみてふに落ちると「あれ。特に特別なことを言っているわけでもなくて、自然に導かれてゆく状態を事細かに段階わけして説明していただけでした」ということに気づいたわけです。
ですから、どこかの本に書いてあったように、おそらくはテクチュ以降は特別な努力なしに自然に瞑想が深まってゆくのだと思います。