マスコミの役割は真実を明らかにすることだった

2020-05-31 記載
トピックスピリチュアル

昔、ジャーナリズムというともっとプライドがあって隠された真実を世の中に広めるという使命感がありましたが今は単なる煽りの道具と化していて、真面目にやっている方々がはなはだ迷惑しているように思います。

真面目な方が真実の報道をしている一方で、目立つジャーナリストが煽り記事を広める風潮は今に始まったことではないですけど、そこはやはり歴史的なものがあるのでしょうね。海外ではジャーナリストの歴史としてまず最初にカリスマ的な報道記者がいてその周辺にジャーナリズムのあり方の思想が出来上がってきたのに対し、日本の場合は輸入してしまって単なる宣伝の道具として扱われてきたという大きな違いがあると思います。

まず最初に思想的なものがないとマスコミの報道も煽りの道具になってしまうのでしょう。

既にシステムとして煽りの道具が機能しており、システムが一人歩きして巨大になって制御不能なほど日々動き続けており、そこにはもはや人間の意図が存在せずに、ジャーナリストはシステムの一部としての煽りの機能を持たされているようにも感じます。

最初は煽りによって人の目を向けさせるとか世の中を扇動するという意図があったように思いますが、既にシステムとして煽りこそが目的と化しており、目的が存在せずに煽りだけが日々繰り返されるだけの生産性のない状況を生み出しているように思います。

日本には戦争がありませんけどアストラルな想念の世界を見てみると戦争に類似したことは起こっており、人々のうっぷんや妬み、怒り、そのようなものがそこら中にぷかぷか浮いていて雲のように漂っており、そこを通過するだけで怒りや悲しみといった感情に支配されてしまうことがあります。オーラが不安定なほどそのような漂う想念の雲の影響にさらされやすいです。

ですから、用もなくそこらを歩き回るのは、実はあまりお勧めできないです。想念を拾ってしまって不愉快になったりしますからね。

今、マスコミはそのような害毒の想念の雲をばらまく機能になってしまっているわけです。マスコミが煽り記事を出すこと自体は無視すればいいのですが、このように、煽り記事に影響されてしまった人々がそこら中にばらまく不快な想念の雲はとても迷惑です。

昔は報道機関といえば特別でしたが、今は自分で直接的に広報することができますし、記者にしても会社に属する必要が減っていって個人で発信する方が思想がよくわかって良いわけです。

そもそも「公平」な報道なんていうのは本人が思想的に公平なところを目指していることが前提になるわけで、その目的が自身で明らかになっていないのであれば公平なんてのはただの言い訳にしか過ぎないわけです。

昔のジャーナリストが言っていた「公平」というのは「事実だけを言う」ことではなくて、個人の思想に基づいて双方を判断することでありましたので、相対的なものであるわけです。事実だけを言うジャーナリズムが正しいと思うのならそうすればいいですし、個人の思想を公平と呼んで双方を判断するならそうすればいいわけです。

「事実」あるいは「個人の価値観の元の公平な双方の視点」であるなら、煽りよりもよっぽど良いです。

そのような観点がないなら、今後ますますジャーナリズムは不要なものとして扱われてゆくでしょうね。

これは、煽り記事に反応する人が減るなら自然消滅するでしょうし、増えるならば大師が手を下して人知れずジャーナリズム解体のプロジェクトを発動させるでしょうね。どちらになりますかね。

大師は自分では世の中の動向がわかりませんので目となってこの世に普通に転生している人たちの視点を参考にします。そのような人が誰かは一般的にはわかりませんけど、実は「目」である人に意見が届くように視点や意見を日々発信するのはどの人であっても大切なように思います。