非我を働かせる、とは良い表現

2020-06-02 記
トピックスピリチュアル

最近入手した本が意外に瞑想について詳しく書いてありまして、元カトリック教徒の外国人が禅を習った記録とのことですが、そこに「非我を働かせる」と言う表現がありました。

これはヴィパッサナー状態(観察状態)を示すのにとても良い表現だと思います。そうですか。こう言う表現方法がありましたか。

そういえばOSHOの本で「無心」と言う表現をしていましたね。西洋の人や、インド人であっても西洋に受け入れられる人の表現は否定形が多いのかもしれませんね。否定形で表すことによって西洋の人に「そうか」と理解されるのかもしれません。

日本人にとっては「ふむふむ」と言う感じですし、実際にそれがどう言うことなのか、わかるようでいてわからなかったりする気もします。

「非我」にせよ「無心」にせよ、心を超えた何か、あるいは、心ではない何かをどうにかして表現しようとしているように思います。

ただ単に「非我」「無心」としてしまうと何某かの境地であるように理解されてしまい、それはトランス状態か何か、彷彿状態か何かだと理解されてしまうかもしれません。

しかし、「非我を働かせる」と表現すればそれは「行動」が伴いますので、超感覚および超思考が働く世界であると言うことが明らかになるわけです。

それは、顕在意識での行動ではありませんので行動とは言っても違う種類の行動であるわけですし、行動と言うと肉体と五感による活動と理解されてしまいますので私なんかは行動という言葉はあまり使わないようにしておりますが、同書のコンテキストから言えば「非我を働かせる」というのはとてもわかりやすい表現になっているわけです。

「非我」ですから通常の心ではなく、しかも、それが活動する、ということは、それができているかどうかが読む人にとって自分で判断できると思うのです。

読んでいる人ができているつもりにならずに、これは何某か、自分が知らない何かであるということを理解するには「非我を働かせる」という表現は十分だと思います。

というのも、この種のスピリチュアルは色々なところで語られていますので、なんとなく自分が高次な意識を持っているかのように錯覚しがちだからです。しかし、「非我を働かせる」という表現は錯覚させないだけのはっきりとした表現になっていると思います。

「自我の妨げなしに、行為の秘めた力が働くにまかせる」ということを私は学んでいたのでした。私が学んでいたのは「自我を働かせない」ということではありません。私が学んでいたのは「非我を働かせる」ということでした。「生きているのは、もはや私ではない」ということが、ようやく日々の生活に現れつつありました。「禅入門(イレーヌ・マネキス著)」