自我が戸惑った後、時間が経てば自我が静まる

2020-06-17 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

先日の続きです。自我が戸惑う段階に来て、その後は特にすることはありません。瞑想でその戸惑いを静かに観察し続けるだけです。そうすると、ふとした瞬間に ふっ と戸惑いが消えて自我が鎮まります。その時は、特に力は必要ありません。

シャマタ(集中)の境地においてはある種の集中「力」が必要でした。最初は特別に強い力が必要で、同じシャマタでも次第に力が要らなくなってゆきます。

そうしてヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディになってもまだ多少の力は必要ですが、ここに来て、ようやく力が不要な状態になります。

不要とは言っても、お盆を片手で持っているかのような、あるいは、頭の上に荷物を載せているかのような体幹によるしっかりとした土台が瞑想の力として必要にはなりますが、それは力を入れているというよりは、心の体幹がどっしりとしていて、もはや特別な努力が要らなくなる、と言った種類のものです。

ですから、その体幹を力とは言わないですけど、体幹がしっかりしていることで心が揺れ動かなくなり、それにより、意識で力を加えなくても心が安定しているのです。

その状態になれば、自我が最初は戸惑ったとしてもやがては戸惑いが薄れ、自我が自分の安全さに気付くかの如く自我が鎮まってゆきます。

それは丸い鉄の玉が磁石によって引き寄せられているかの如く、自我それ自体は何者かによってきちんと制御されている状態になります。

この状態をなんというのか微妙なところです。ヴィパッサナーと呼ぶこともできるでしょうし、サマーディの一形態と呼ぶこともできるかもしれません。

今まで自我が何某か反応をしていたことに対しても自我が表面的には反応しなくなり、むしろその奥にある真我と呼ぶべきかあるいは潜在意識と呼ぶべきものだけが受け答えをするようになります。

その時、奥にある潜在意識が反応する度に自我が「自分は答えなくても良いのですよね?」と言わんばかりに、都度、戸惑いを見せます。これは単なる戸惑いを言葉で表現しているだけですので自我がこのように意識を発するわけではなく、単に、戸惑いが広がるのみです。この段階では、自我はいわゆる「待て」の状態で待機しています。それでも、周囲で何が起こっているのだろう、と気になって戸惑いを見せるのです。

真我と自我の関係は、まるで飼い主とよく躾けられた犬との関係に似ているような気が致します。真我が自我に対して「伏せをして待て」と命令すれば、まるで犬が、飼い主の意図はわからないまでもそれに従って、それでいて犬ですから周囲が気になって仕方がない、という、その関係によく似ているような気が致します。

戸惑いはするものの、自我は雑念に対しては何も反応しなくて良いのだと訓練されていますから戸惑うだけで終わりで、深い潜在意識が少し反応を見せたり見せなかったり、時によって色々です。


昔からよく聞く例え話で、真実を知るためには「力を抜かなくてはならない」とか、「握り締めてしまうから真実を失う。握りしめる手を緩めなくてはならない」みたいなお話は、ひょっとしたらこの段階のことを表現しているのかもしれません。