よく「我思う故に我あり」なんて言われてますけど、実際には、我思わなくても我あり、なのですよ。
だって、思考を止めたらあなたの体が消えてしまいますか? 消えないでしょ。
思考を止めても全く安全なのですよ。
「我思う故に我あり」なんて言ってるから精神病が生まれるのですし、あまり考えないで反射的にしか物事を捉えられない人が量産されます。
実際のところ、思わない時に何をしているかというと「じっくりと見る」ということをしています。思っている間は「じっくりと見る」なんてことはできないです。
ヨーガとかゾクチェンではその状態を「むきだしの心(が物事を観察する)」とか言ったりします。
頭でグルグルと物事を考えているときに「じっくりと見る」なんてことできないですよ。頭でグルグルと延々に回転させてできることは過去のノウハウを取り出すことだけで、「じっくりと見る」なんてのは不可能です。
この辺りが、本当の知恵者と小賢しい子知恵を働かせる人との違いですよね。
頭でグルグルと回転させて反応的に生きていたら物事の真の姿は見抜けなくて小賢しい知恵しか出てきません。しかもそれは自分が生み出したというよりは何処かから拾ってきた知恵でしかありませんから自分で生み出したものではない分、たちが悪いです。というのも、自分で生み出していませんから責任感が薄くて、愛着も少なくて、実行時にもやり遂げる責任感が足りず、自分がやっているという主体者意識にも欠けることになります。
小賢しい人はそれでいて知恵は回って自分のエゴを満足させようとしますから更に厄介です。こういう人が国や故郷及び自分がいる会社を売ったりするのですよね。小賢しい知恵者に権限を与えてはいけないですし、それでいて不遇だと思ってしまった小賢しい知恵者が工作することにも気を付けていなければなりません。最初から小賢しい人はグループに入れないことですよね。それでも多少は入ってきてしまうのが小賢しい人の厄介なところですけど、いくつも防波堤を築くことです。
物事を聞いたときにすぐ反応が返ってくる人は頭が良いと言えば良いですが、「我思う故に我あり」と思っているのか「我思わなくても我あり」と思っているのか、そこが大きな違いになります。
単純に頭の回転が早くて「我思わなくても我あり」と思っている人は優秀ですが、頭の回転が早くても「我思う故に我あり」と思っている人は小賢しいだけの人です。
これ、小さな違いに見えるかもしれませんけど、かなり大きな、絶対的な違いであって、そうそう超えられない壁になるほどの大きな違いです。
安全策を取るのであれば、頭の回転を抜きにして自分というものが何だと考えているのかを焦点にするべきかもしれませんね。今の社会はそうはなっていませんけどね。
瞑想的に考えるならば、現時点で頭の回転がそれほどではなくても、瞑想をして行くに連れて頭の回転は早くなります。ですから、本当に瞑想を突き詰めることができる環境があるのであれば根本的な「自分は何だと考えているのか」のみが重要になるのですけど、これはこれで、必ずしも瞑想でそこまでの境地にたどり着けるとは限らないのが困ったところです。
瞑想でそこまでの境地にたどり着くことが出来なくても、「我思わなくても我あり」ということを知っておくだけでも有益だと思います。
思考がなくなると貴方はいなくなるのかどうか? という点に関しては哲学者が様々に答えを考えてきました。ですけど、所詮はそれは頭で考えた答えなのですよね。
例えば意識だけのことを取り上げてみると、思考を止めたら貴方がなくなってしまうのならば、しばらく思考を止めた後にもう一度思考を開始することができるのはどういうことでしょう? 思考が自分で、思考が止まったら自分がなくなるのならば、なくなるというのはゼロですから、もう二度と思考できなくなってしまうわけでしょう。それとも、思考がなくなったら貴方というものはなくなってしまうけれども、また思考をしたら貴方が再度作られる、ということですか? だとしたら、前の貴方と新しい貴方との関係は何でしょう? 繋がりがあると考える哲学者と繋がりがないと考える哲学者がいるらしくて、前の思考と後の思考は繋がっていると考える哲学者と、前の思考と後の思考とは全く別の自分だと考える哲学者がいたりします。
・・・・こんな話を延々と聞いて、何か貴方の役に立ちますか? 単に頭の中でごちゃごちゃ考えているだけですよ。普通の人はそんな哲学者のグルグル思考に付き合う必要はないですよ。
ヨーガは、もっと単純な答えを用意しています。
思考が止まっても再度思考ができるということは、思考よりも根本のところに異なる根元の何かがあるということですよ。その根元の方をヨーガでは「私」と呼んでいて、ヨーガでは思考は「私ではない」としています。
だとしたら、「我思わなくても我あり」なのは当然でしょう。