息を観察する瞑想とかありますけど、観察よりも集中こそが瞑想に必要になります。
最近は理屈っぽい人が多くなっていて、ヴィパッサナー瞑想なども有名になったりして観察瞑想とか言われていますけど、瞑想の基本は観察ではなくて集中です。
瞑想の宣伝文句で「集中瞑想は本質ではなく、観察瞑想こそが本質」とか宣伝されていますけど、そういう謳い文句に流されない方が身のためです。
瞑想というものは何千年も歴史があって、瞑想というのは集中瞑想が基本です。
その基本をないがしろにして「実は瞑想は集中のことではなくて観察のことなんですよ!」なんていう煽り文句に騙されてしまうと痛い目を見ます。
特に瞑想なんてのは自分の内面で行うものですから、気がつかないうちに混乱をきたしてしまうこともあります。
上のような無責任な宣伝文句に惑わされて「観察瞑想」とやらをしてしまった結果、集中が疎かになってしまって精神的なダメージを受けてしまう方が多くいらっしゃいます。
この辺り、やはり歴史というものは重要で、歴代に渡って瞑想をされてきた流派と最近ぽっと出てきて瞑想を教えている人とは一味も二味も違うと思います。
瞑想とは何か? を聞いたときに「集中です」と答える人は本質がわかっています。
「観察です」という答えも間違いではないです。ですが、基本は集中です。
実際のところ、瞑想とは両方です。
特に初心者向けには「瞑想は集中です」と言っても間違いではないですし、「はじめての瞑想」なんていうお話であればそう言い切ってしまっても問題はないと思います。
それを、どこから持ってきたのかはそれぞれですけど「ブッダ伝来」とか理屈をつけて「観察瞑想」こそが本質だ、なんて言い出している方がいらっしゃいます。
人々は物珍しいものに惹かれるのでしょうね。そう煽られれば「そうか。集中瞑想は本質じゃないんだ。観察瞑想こそが本質なんだ」とか思ってしまうでしょう。
確かにね、中級者以上であれば観察瞑想が本質です。
しかし、ほとんどの人は瞑想初心者でしょう。質問で「瞑想とは何か」とか「瞑想は集中ですか、観察ですか」なんて聞いている時点で初心者ですよ。であれば「瞑想とは集中です」という回答で十分だと思いますよ。
書物で瞑想をかじった人は「集中です」と言われると「古典」だとか「古い」とか思ったりして、ガッカリしたりするようです。
しかしですね、やっぱり瞑想は「集中」なのですよ。そこのところがわかっているかどうかが大きいのです。
「瞑想が集中なんて言っている人は古い。瞑想は観察だ」とかいう人は瞑想の初心者確定です。そんなこと言うのは初心者だけです。
ぐるぐると大回りして、最後に「ああ、やっぱり瞑想は集中だった」と気付く人もそれなりにいらっしゃいます。
であれば、最初から古典である「瞑想は集中」から始めれば早いと思うのですけどねえ。人は、新しくて物珍しいものに惹かれますからね。「瞑想は集中ではなく観察だ!」と煽られれば「そうだ」と思ってしまうのでしょうね。
瞑想とか精神世界って落とし穴がいっぱいで、簡単に誰かを精神的な奴隷にできてしまいますから、何某かで煽ることで引き付けたい、という人もいらっしゃるのでしょうね。あるいは、何か単に瞑想について勘違いしているだけかもしれませんね。どちらにせよ、そんな煽り文句など放っておいて、古典的な瞑想である「集中」から始めるのが早道だと思うわけです。
例えば、息を観察する瞑想。これは、息に集中する瞑想のことです。中級者以上は息を観察する瞑想ですけど、初心者にとっては息に集中する瞑想のことです。
瞑想において「力を入れない」なんて言われますけど、これまた中級者以上のお話です。
初心者は瞑想においてかなり力を入れて集中しないと意識がさまよってしまいますから頑張って集中する必要があります。そんなものです。「ほんわかと観察しましょう」なんてお話を本気にしたらいつまで経っても瞑想の効果が出ないです。特に急いでいないのならばいいですけどね。悩みを早く解決したいなら集中から入るべきです。
皮膚を観察する瞑想なんてのも同じことです。これも中級者以上が観察で初心者は皮膚に集中する瞑想です。
どちらにせよ、皮膚の観察をしたところで五感の範疇ですから、強い弱いの違いがあっても全て集中瞑想とも言えますし全て観察瞑想とも言えます。所詮は割合が違うだけです。それを集中瞑想だとか観察瞑想だとか分けることこそ意味がないと言えば意味がないわけです。
五感を超えたところの意識が現れてくる段階があって、それをヴィパッサナー(観察)瞑想とも言うことができますが、そんなのは先の先のお話であって、皮膚をいくらやんわりと観察したところで所詮は五感の観察ですから、観察だとかに拘らず、基本である集中瞑想をしっかりやればいいと思うわけです。