サマーディという言葉の多様な解釈

2020-07-16 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガ系のサマーディと仏教あるいはヴィパッサナー系のサマーディとでは内容が異なります。

基本的な概略は以下です。

・ヨーガ系はサマーディが最上でそれより上はない。
・仏教あるいはヴィパッサナー系はサマーディは通過点であり観察状態(ヴィパッサナー)に至ってから悟りに到達する。

これは、様々な誤解を含んでいます。

これだけを見ると仏教が最上と読めてしまいますが、実際のところ、ヨーガ系と仏教は同じようなことを言っているに過ぎません。

特にヨーガは秘密主義で弟子にしか本質を教えませんから一般向けの説明と弟子向けの説明は異なっています。仏教は誰にでも教えますから、両者の説明を比べるならば弟子向けの説明、いわゆる秘伝・奥義とを比べなくてはならないわけです。

ヨーガ系は、一般的にはサマーディは集中だと理解されていますが、実際には観察状態(ヴィパッサナー)です。今でこそ書籍に普通に書いてあったりしますが、そんなお話は弟子になってからかなり修行して瞑想が高まらないと教えてもらえないものでした。そんなわけで、色々と誤解が蔓延しているように思います。

ヨーガ系でのサマーディは「人間の心を超越した仏の心」とでも解釈できるものが表れて初めて達成されます。一般的に理解されているように「ただの集中」ではありません。集中というのは一般向けの説明です。集中を高めればサマーディになるというのは間違いではありませんから一般向けの説明としてはそれで十分だと彼らは判断しているようです。

仏教はというとその一般向けのサマーディの解釈を使って理屈を組み立てていますので特に仏教を学んだ人はサマーディという言葉を集中として解釈しがちです。しかし、ヨーガのサマーディは異なる意味だということを押さえておかないと話の理解が違ってきてしまいます。

流派によって言葉の使い方が違いますのでこのあたりはコンテキストに沿って解釈しないといけませんね。

他人が話す言葉に対してありきたりの反応をすぐにしてしまうような人もいますけど、特にこの辺りの言葉は流派および話す人によっても解釈がまちまちですから言葉通りに受け取ることができず、その時、その時に応じて解釈しなくてはならないのでなかなか大変なところでもあります。