一瞥をしたいのならばいくらでも方法があります。簡単な方法であれば修行すらいらないです。
私はやったことありませんけど後遺症があってもいいのならば幻覚剤を使う方法も使えるかもしれませんし、魔女系の方法、スピリチュアルなトランス、あるいは先日書きましたように誰かに幽体離脱を手伝ってもらって時空を超えるという方法もありますね。全て「一瞥」です。一瞥でいいなら割と修行なんていりません。修行するにしても、魔女的あるいはテクニックを使う方法ですと自我(エゴ)が残っていても一瞥はできますから、ある程度のテクニックとラッキーさがあれば一瞥は可能です。
ゴールをどこに定めるかですよね。悟りが欲しいという目標があったとしても、一瞥の悟りを求めているのか、それとも永続的な日常的な生活における悟りを求めているのかで違いますよね。
瞑想中にだけ感じることのできる悟りは、たとえそれだけであったとしても素晴らしいことは確かです。幽体離脱で体感する悟りも、これまた素晴らしいことは確かです。それはそれで素晴らしいのですが、最終目標をどこに置きますか? というお話です。
最終ゴールが継続的な日常生活にまで行き届いた悟りの状態であるのならば、やはりそれは伝統的な方法に従うことになると思います。
一瞥であるのならばトランスだとか激しい瞑想だとかショックのある方法だとか・・・ いくらでも方法があります。一番簡単で修行が全くいらないのは、誰かに手伝ってもらって幽体離脱することですかね。
でも、戻ってきてからの顕在意識と幽体離脱で見聞きした内容のギャップに苦しむかもしれませんけどね。それは当人次第です。問題ないかもしれませんし。
どちらにせよ、一瞥は所詮は一瞥で、それでゴールにしたいならそれで構わないです。ただ、一瞥なんかが永続的な悟りだと勘違いしても幸せにはなれないと私なんかは思いますけどね。
一瞥がしたいなら瞑想なんてする必要がなくて、一時的に精神を落ち着けたり、トランスのように顕在意識を一時的に眠らせることで奥底の意識を浮かび上がらせたり・・・ 詳しくは言いませんけど、いくらでも方法があります。
どちらが自分のゴールなのか?
ゴールが継続的な日常生活にまで行き渡った本当の悟りであるなら、やっぱり基本は瞑想ですよね。雑念を減らして沈黙の状態である静寂の意識に入り、宇宙意識に到達する。
それしかないです。 と、私は思っています。
YouTubeとかブログを見ると悟りとか覚醒について色々と言っている人がいますけど、一瞥の悟りあるいは一瞥の覚醒を本物の悟りであるかのように説明している方がそれなりにいて、ミスリードだなぁ、とか思ったりもしますけど、そのように偽物を見極めることも修行の1つだと思いますし、まあ、好きにすればいいと思います。そういう一瞥の悟りを求めていらっしゃる方もおられると思いますしね。何をするのも個人の自由です。
昔から、一瞥の悟りを得た人は教祖になって、本当の悟りを得た人は教祖にはならない、と言われていますけど、それはある程度は当たっていると思いますね。最近は新興宗教の教祖様ではなくてYouTubeチャンネルの教祖様みたいな感じですけど、スタイルは違えども同じことです。
一瞥をしただけで「私は悟りを得ました!!」と言って修行を辞めてしまう方はとても多くいらっしゃいます。そこらのスピリチュアルな集会に顔を出せば「私は悟りを得ています」とか「私は覚醒しました」「宇宙意識を得ました」と言う人なんて割と普通にいます。それが一時的なものなのか継続的なものなのか、見極めが重要ですよね。グルがいれば「君の悟りは一時的なものに過ぎない」とか指摘してもらえますけど、一人でやっていると勘違いもありますよね。
スピリチュアルとか宗教をやっている人って、悩んでその道に入った人もそれなりにいますけど、ある一定の割合で、子供の頃に神秘的な体験で悟りを垣間見るとかもともと見えないものが見えたとか聞こえたとかいう基礎があって、その方面をもっと知りたいとか悟りを確かなものにしたいという目的があってその道の修行に入ったりするわけです。そのように、一瞥は所詮は一瞥でしかなくて、やがて一瞥で得た感覚が薄くなっていくとそれを求めて修行を始める人もそれなりにいるとは思います。子供の頃に幽体離脱したり臨死体験で真理を見たことがきっかけでスピリチュアルや宗教をやって悟りを求めている方はぼちぼちいらっしゃいますよね。一瞥は一瞥でしかなくても良いきっかけになるわけです。
スワミ・ヨーゲンヴァラナンダのように若い頃にヒマラヤ大師と出会って感化されて死ぬまで修行に励んだ、という方もいらっしゃいますし。
一瞥をしたことで本物を知って感化されて修行を始める人も大勢いらっしゃいますので一瞥であっても無駄ではないですしね。最初は一瞥を求めていても最終的な悟りを求めるようになるということも沢山あると思います。