ヴィパッサナー瞑想状態というのは心の本性(いわゆるリクパ)が五感や心を観察している状態で、ヴィパッサナー瞑想状態であれば体の感覚の観察が容易にできますけど、体の感覚を観察する瞑想を行ってもそれがそのままヴィパッサナー瞑想状態ではありません。
後者は、一部の流派のやり方としてのヴィパッサナー瞑想が体の感覚を観察する、というだけのお話です。
ヴィパッサナー瞑想というのは瞑想の1つのやり方で、ヴィパッサナーとは観察のことですから、瞑想の手法としては瞑想状態の1つの要素です。それをそのまま名前にしているだけのことで、ヴィパッサナー状態と流派としてのヴィパッサナー瞑想の手法を分けて考えた方がいいと思います。体の感覚を観察する瞑想は瞑想手法に単にヴィパッサナーと名前がついているだけであって、瞑想で達することができる認識としてのヴィパッサナーではないわけです。
瞑想を続けてある程度の認識に至った人がヴィパッサナーの状態に至って、その時は体の感覚も容易に観察できる、というお話が最初にあって、それを真似して瞑想手法を作り上げたのかな、とも推測してしまいます。瞑想初心者のうちから体の感覚の観察を真似するのは難易度が高いと私なんかは思いますけど、流派によってはそのような瞑想を使って修行してそれなりの境地に達することができているようですから、私はもっと違った道の方がいいとは思いますけどその流派がそう教えていてそれが正しいと思うのならそうしたらいいと思います。
これはもともとある程度の素地があってヴィパッサナー状態がある程度わかっている人には有効で、そういう人にはちょっと教えれば「ああ、そういうことか」と「気付いて」あるいは「(瞑想状態を)思い出して」、すぐにヴィパッサナー状態に達することができます。
これは、スピリチュアルで「気付くだけなんですよ」「思い出すだけなんですよ」とか言っていることが該当するような気がしますけど、素地がなかったり、素地があったとしても社会生活でひどく疲れている人にはそう言ったところでなかなか到達できない境地だとは思います。気付けばいいだけと言われて「そうか」と思ってすぐにそうなれる人なんてそうそういないと思います。なんとなくイメージで想像してそんな気になるのは簡単ですけど。そのように、想像で固めてしまって自分はわかっていると思いこんでしまう方もそれなりにいらっしゃいますので、簡単だと思わせてしまうのも特に罪作りだったりします。確かに、分かる人にとっては本当に気付くだけあるいは思い出すだけだったりしますけどね... それはケースバイケースです。
本当にすぐに気付ける人はそれはそれでいいんですけど、多くの人はそうではないと思います。すぐには到達できない人の方が多いと思います。
そして、素質のある人であってもよく誤解するのが「体の観察を観察すればヴィパッサナー状態に至る(体の観察をするというアクションに対してヴィパッサナーという結果が生じる)」という誤解です。そうではなくて、「ヴィパッサナー状態であれば体の状態が観察できる」というのが事実です。これは、似ているようでいて違います。ヴィパッサナー状態になっていなくて体の感覚を観察したところで何も起こりません。何も起こらずに瞑想を頑張り続けて、瞑想とはそういうものだと誤解してしまうことすらあります。誤解があったとしてもふとしたことで本物の境地に至ることもあるのでなかなか全てそうだとは言い切れないのですが、基本的にはそうです。
ヴィパッサナー状態というのは五感を超えた意識(いわゆるリクパ)が五感や心の動きを観察しているという状態ですので、ここでの誤解は、心が五感を観察すればヴィパッサナーだと思いこんでいる点にあるわけです。
■ヴィパッサナー状態 → リクパが五感や心を観察している。よって、五感(皮膚)の感覚も観察できている。心の集中は不要だが、気づきとしての集中(のようなもの)は必要。気づきを高めた状態、あるいは、気付きが高まった状態、とも言えます(主体がどこかによって言い方が違うだけで同じことを意味しています)。
■手法としてのヴィパッサナー瞑想 → 心が五感(感覚)を観察している。心の集中が必要。
ですから、全く別物なのに、あたかも、皮膚を観察すればヴィパッサナーだ、と思っている誤解が多くあるように思うわけです。
個人的に思うのは、最初の段階では皮膚の観察とかよりもとにかく集中瞑想がいいと思いますけどね。ただ、教えてもらっている流派がヴィパッサナー方式ならそれに従うのも個人の自由だと思います。
ヴィパッサナーの流派は、集中も「ある程度」必要、とか説明しますけど、ある程度どころか、かなりのところまで集中が重要だと個人的には思っています。