観照自体は静寂の境地に度々達した後に起こっておりましたが、最近の瞑想では、静寂の境地の前であっても観照が自動的に起こるようになってきました。
静寂の境地はいわゆるシネーの境地であり、ヨーガスートラにおけるシャマタ(止)であり、心が静止した状態であると言えます。
今回の観照は、心の静止の後ではなく、心の動きそのものを観察するという働きを観照と呼んでいます。
ですから、必ずしもシャマタ(止)をしているわけではなく、むしろ心は自由にさせていて、それでも観照が続いています。
心の中に雑念や考えが浮かんできてもそれをただ観察しています。その観察の中に取り込まれることなしに、少し宙に浮いているかのごとく少し離れた状態でいます。
今までは、心の中に雑念や考えが浮かんでくると、足元が沼地あるいは誰かが足を引っ張るかのように地面の中に引きずり込まれて雑念や考えだけが意識にあるような状態になっておりましたが、観照の状態においては、自分の心が少し地面から浮いていて、とは言いましてもそれほど高くは浮いていないので多少は引っ張られることもまだあるのですが、基本的には浮いているので雑念や考えが現れてもそれを見続けることができます。
これは、以前は静寂の境地(シャマタ、シネーの境地)に達した後にこのような状態になっておりました。いわゆるヴィパッサナー状態とも言えます。
例えば、朝に瞑想をして、早くて30分、あるいは1時間とか1時間半とか瞑想をした後に静寂の境地に達して静寂の境地に至りヴィパッサナー状態になっておりました。
しかし、最近は、瞑想を始めるかあるいは座る前であってもある程度の観照が動いていて、特に座って瞑想をしているときには観照によって上記のように心の状態をそのまま観察できています。
それは、「自動的」な観照である、とも言えます。
これが自動的かどうかはかなり大きな違いで、意思を働かせていなくては起こらない観照と、まだそこそこであったとしても自動的に働く観照とではかなりの違いがあるように思われます。
観照の感覚自体は前から起きていたように思いますのでそれ自体は珍しくはないのですが、昔であればあるほどその観照が日常生活で続く時間が短く、今は、その持続時間が伸びてきている、とも言えます。これがまだ24時間にまでは達していないですけど、いわゆる悟りを得た方々は眠っている間も意識が継続していると言いますので、観照の継続は悟りに必要な条件のように思います。
これは別の解釈をすると、身口意(しんくい)のうち意識(心)の観察であると言えます。身に属する五感の観察は簡単で、最初は体の観察から初めます。次にエネルギー的な観察をします。エネルギーは五感よりもより微細です。もっと微細なのは心の動きです。これら3つすべてを観察するのが観照なのだと思います。