ヴィパッサナー瞑想の実況中継は、それが出来るなら既に覚醒している

2021-03-14 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヴィパッサナー瞑想の本を読みますと、皮膚の感覚や心の思いを実況中継しましょう、とか言っていますけど、実況中継できるなら既に覚醒しているわけです。

ですから、そんな無茶なこと言ってもなぁ・・・ というのが個人的な感想です。語弊があるといけないのでどことは言いませんけど。

実況中継というのは五感あるいは心の動きに対して明確に心が反応するということですから、五感あるいは心の動きというインプットに対して行動をする(アウトプットをする)ということですので、それはサマーディあるいは本来のヴィパッサナー瞑想の本意であるところの「観察」とは異なるわけです。

サマーディとしての観察であれば文字通り観察するだけで、そこに「反応」としての作用があろうがなかろうがその全てを観察するわけで、心の動きに対して実況中継すること自体は単なる集中の訓練にすぎないわけです。

しかも、そのような皮膚の動きやら心の動きなどはとてつもなく早くて数秒ごとにあるいはもっと早く次々に現れては消えてゆきますから、それを実況中継しようとするならば相当に覚醒していなければ到底間に合わないわけです。

最初の皮膚の感覚が現れた瞬間に言語化して実況中継をしている間に次の感覚がすぐに現れてきて、更には、雑念が素早く出てきた瞬間にまた実況中継をして・・・ なんてのができるのであれば既に覚醒しています。

なかなかに無茶なことを教えているなぁ・・・ というのが個人的な感想です。そんなこと言われても、不可能だと思いますけど。

沢山ある五感の入力あるいは沢山ある雑念のうち1つだけピックアップしてそれだけを実況中継して、実況中継が終わったら次の五感の入力あるいは雑念のうちの1つに気づいて実況中継、というのならばわからなくもありません。そういうことなのかもしれませんね。あるいは、単に、挑戦してみましょう、ということなのかもしれません。

ただ、実況中継しようとすると心の動きを「止める」意図が生じてしまいますので、ありのままを眺めるということになかなかなりません。

教えとしては「思考を止める必要はない」と教わりますが、実際のところ、思考を止めずに実況中継できるのならば相当に既に覚醒しています。

それなりに覚醒せずにそんなことできるのならそもそも苦労はないわけで。なかなかの無茶振りだなぁ、と思うのです。

できもしない教えをしたところで混乱しますし、そもそも、心というものは現れては消えてゆくものですので、実況中継とは相容れないと思いますが。

サマーディとしての五感の感覚および心の観察というのは、心というものが空(何も現れていない状態)から色(現れた状態)が生じて再度それが空に返ってゆくものですので、空もサマーディの観察対象ですし、色としての五感あるいは雑念や思考などもまた同様に観察対象であるわけです。色だけをピックアップして、更には、同様に色であるところの思考で実況中継をしたところでそれは集中を育てているだけにすぎず、サマーディとしての、空と色とをありのままに両方とも観察するというところにはなかなかたどり着かないのだろうとは思います。

あの手法で悟ることができる人がどれだけいるのですかね・・・。なかなかにきつい、千尋の谷に突き落とすような瞑想方法に私には見えますけどね・・・。 もともとそれなりに覚醒している人にはいいのかもしれませんけど、やったところで、五感や心を観察するうちに疲れて終わりになるだけのことが多いようにも思いますが、どうなのでしょうかね。

単に、実況中継とか決まった動作を繰り返すとかで雑念を繰り返させない、という効果を期待しているのであればそれはそれでありだとは思いますけど。ただ、それはサマーディとかとは全く違うレベルだとは思いますが。