西洋スピリチュアルではよくアファメーションと呼ばれるような宣言あるいは詩および祈りのようなものを唱えることがありますけど、今まで、その必要を感じたことはほとんどありませんでした。
しかし、ここに来て、このような種類の宣言が必要だという気になってきました。
例えば「私は◯◯を意図します。私は◯◯になります。私は◯◯の人生を歩みます」みたいなものをよく目にしますが、どうもしっくり来ていませんでした。
と、言うのも、どうやらそれは他人の人生の宣言だからしっくり来ていなかった、ということのようなのです。
この種の宣言あるいは祈りは、自分で作るものだ、ということです。
そして、それは本来、他人に共有してもあまり意味のないものなのかな、とも思います。例として見せるのはありかもしれませんけど。
ましてや、他人の宣言あるいは祈りを唱えてみたところでしっくりこないのは当然だと言えます。参考にはなるかもしれませんけど。
自分の人生をどうしたいのか? という問いは、今までは割と私の場合は小学生の頃に体験した幽体離脱で私自身のスピリットが体を抜け出て過去と未来を見た時に決めていたことで、その時の記憶を元に決めていたというか、記憶を辿っていた感じでした。
しかし、ここに来て、そうであったとしても自分の人生に対する宣言あるいは祈りを立てる必要性を感じてきています。
そうであるからこそ、自分自身のスピリットが時空を超えて働いている時にその自分のスピリットと意思が合わさって人生を描いてゆけるようになるからです。
スピリットの側でいくら意図しようとも、顕在意識としての自分が人生を意図して宣言あるいは祈りを行わなければ実際の三次元において物事は顕在化して現実になっていきません。
このことにはっきりと気がついたのは、私の記憶あるいはスピリットがパラレルワールドで見た記憶を辿ると、どうやら現在のこの時点において他のパラレルワールドにおいては今のこのタイムラインよりも遥かに悟った自分がいることに気がついていて、それはどうしてだろう? 何故、そのような違いがあるのだろう? と探ってみた時に、この種の宣言あるいは祈りが足りないからなのではないだろうか、という理解に至ったわけです。
必ずしもその別のタイムラインの方が宣言あるいは祈りが強かったというわけではなく、その別のタイムラインは例えばグルの指導がよくて今よりも覚醒が進んでいたりだとか、あるいは、スピリットの気まぐれでもっと覚醒させてみたりだとか、理由は様々ですけど、今の私のタイムラインにおいては、もっと覚醒しようという宣言あるいは祈りが足りていない、ということのようです。
タイムラインとかパラレルワールドというと時空を超えて文字通り別の次元、という理解になってしまうかもしれませんけど、実際にはタイムラインやパラレルワールドにも順番があって、時計という意味の時間でいうとたしかに同じ日付のタイムラインが沢山あるわけですけれども、タイムラインの順番があるわけです。あのタイムラインを最初に経験して、時間を戻って、次はこのタイムラインをする、という順番です。そうして、色々なパターンを試して悟りというか理解を深めてゆくわけです。
私の場合、どうやら、覚醒という意味では他のタイムラインの方が進んでいたりしたこともありますが、それほど悟っていない状態における学びがその場合はスキップされてしまったりしましたので、今のような割とゆっくりとした覚醒を選んでいるようです。それは、選ぶというよりは、グルの助けで素早く覚醒したタイムラインを一旦は経験した後に、ちょっと心残りがあるのでタイムラインを遡ってもう一度、ゆっくりとした覚醒のタイムラインをやり直している、という感じです。
ですから、覚醒の速さそれ自体が良い悪いにはならなくて、どうして私が今のようなゆっくりとしたタイムラインをやり直しているのかというと、それは、今までのタイムラインにおいては自分自身が作り出した宣言あるいは祈りというものが足りていなかったのでは、という理解に達したわけです。
具体的には、私自身の世界への働きかけとしての「対象」の設定と、その対象に対して「どうしたいのか」という意図の設定としての宣言あるいは祈りが足りていなかったわけです。
「私が覚醒することで得られる力(パワー)は世界のために利用します。(対象の設定)
全ての人が安寧に生きられるように意図します。(意図の設定)」
これは人によって違っていて当たり前で、特に他人に言う必要はなくて自分の瞑想で自分自身に対して宣言あるいは祈りをすればいいわけですけれども、自分自身で作り出して自分で宣言あるいは祈るものなのかなと思います。特に良し悪しはなくて、好きにすればいいとは思うのですが、自分自身で作る、というのが重要なのかなと思います。