静寂の境地のみを追い求める空病を克服する

2021-03-30 00:00:00
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

一旦静寂の境地に達すると、それのみを追い求めて、それ以外の状態を否定するようになることがあります。

これが、いわゆる空病というもので、スピリチュアルにおいてもオーラの色などで判断して清浄なものだけを追い求めて俗世を否定してしまうような症状が同じことを言っているわけですね。この種の人はスピリチュアルや宗教界にある一定数いて、というか、割と一般的に清浄なものが良いように思われているわけですけれども、実際のところはそれは病気の一種なわけです。

じゃあ清浄な空が良くないものかと言われるとそうではなくて、清浄な空であることそれ自体は問題がなくて、清浄な状態以外を否定してしまう気持ちが良くないわけです。ですから、清浄であってもなくてもその本質は変わないことに気づいていることが必要で、それを流派によっては理解と言ったりしますけど、そのように、状態とは変わるものですから、変わる清浄な状態が絶対的なものであるわけはなく、清浄な状態とそうでない状態のどちらもが大いなる創造というか神というかブラフマンあるいは大いなるイーシュワラの現れであると理解することが必要なわけです。

これは、清浄な空を否定しているわけではなくて、これらを理解するためには清浄な空を知ることも必要で、清浄な空を知った上でそうでない状態も合わせてそれら全ての状態が移り変わるものだと理解することが必要で、変化するものだということは絶対的なものではありませんから相対的なもので、であれば、それを完全に頼るわけにはいかないわけですよね。その、移り変わる空という状態を追い求めないことが肝心です。そうは言いましても空を知るということは必要ですから、空を知った上で、それは移り変わるもので、空から色(現象)が生まれて、やがてはまた空へと戻ってゆく、ということを理解しさえすれば、空の静寂な状態を追い求めることはせずにその時々に現れてくる感情やら現象やらを楽しむことができるようになるわけです。

空病というのは、現象という、いわば「ゆらぎ」を否定して静寂の状態を追い求めてしまうことで、そうなりますと、空がなくなって現象が現れてきた時に空の状態を求めるというストレスや渇望というものが生まれてしまいます。これは自分に対しても他者に対してもそのように空病が現れるならば、他者が疲れたりストレスを感じたりしている時にそれを避けたり嫌悪すると言った態度として現れてきます。必ずしも空病が自らへの欲求として現れるだけでなく、他者への態度として空病が現れてきたりするわけです。

空病というのは、割と空の体験が浅い状態、まだ空に熟練していない状態においてはある程度は仕方がないものだとは思います。それはそれで、空の状態を保つために必要なことで、それをわざわざ「病」と呼ぶ必要は私はないとは思うのですが、伝統的にそれは空病と呼ばれているようです。

この種の意識は、スピリチュアルで言うとオーラの色で階級のヒエラルキーを作るような態度に容易に結びつきます。あの人はオーラの色があれだからまだあのレベルで私はこのレベルだから、みたいな浅いスピリチュアルのお話になったりします。実際、そのようなことを言っていたとしても静寂の意識に達していさえすればそれが間違いだったと気付ける可能性がかなり高いわけでづけれども、静寂の意識にまだ全然到達していないのにも関わらず安易にオーラの色などで他人をレベル付けしてヒエラルキーを作ってしまう人がとても多いわけです。

実際のところ、静寂の境地に達して、その後、清濁併せ呑む「中」の意識に達しさえすればそんな誤解はなくなるのですが、なかなかそのレベルに達せず、悲しいことに、スピリチュアルがヒエラルキーを構築するための道具と化してしまうわけですね。そんなスピリチュアルであればない方がよくて、本来は、「中」の意識を持つことでヒエラルキーを克服することにスピリチュアルの本意があるわけです。

人にはそれぞれ学びがあって、そのために赤いオーラが必要だったり紫色のオーラが必要だったり緑色あるいは青色だったりするわけで、その人のスピリチュアルなレベルとは、それなりにその魂の本質と相関している面もあるにはありますけど、一時的に違う色で数年や数十年暮らすことだってあるわけです。ですから、ちょっと他人のオーラを見たくらいで判断しないことが重要ですし、そもそも、オーラの色とかは関係なくて、本質はというと「中」にあるわけですから、オーラの色は全く関係ないのですよね。ただ、オーラがそのようになっている、というだけのお話です。

他人のことは他人の人生なのだから、基本はほおっておけばいいのですけど、何か他人の人生が気になるということは、自分に問題がある、ということでもあります。自分が「中」の意識に達したら他人を「ありのまま」に見ることはあれども、それでヒエラルキーを作るなんてありえないですしね。秩序のためにヒエラルキーを作らざるをえない場合はあるにはありますけどそれは明確な選択の元にそうするのであって、基本は、自分が「中」の意識に達したら他人はありのままに受け入れて、それだけで終わりなのです。

その意識に達した頃には、空病も克服されていると思います。

こう言うと、汚れていてもいいんだ、みたいに勘違いしてしまう人がいるかもしれませんけど、そういうことではなくて、空は必要です。空は必要で、清浄な意識も必要ですけど、それ以外を否定することはしない、ということです。自分も日常生活で意識が淀むこともありますし、そのために「中」の意識が大切になってくるわけです。意識が淀んでも「空」を追い求めることはせずに、ただ、ありのままに受け入れる。その上で、定期的に瞑想をするなどして「空」の状態を強化してゆくわけです。