瞑想の基本的な考え方は2つの心があるという考えに立脚しており、普通の心と心の本性(リクパ)のそれぞれがあって、リクパは最初は多くの人にとっては厚い雲に囲われていて隠れているので覆われているものを取り除く(浄化)することでリクパを表す、というような説明がなされたりしますけど、実際のところ、心というものは1つしかなくて、ただ、グラデーションのように幅広く心に階層があるだけなのです。
そうは言いましても大きく分けて思考する普通の心と微細なものに分けた方が説明がしやすいので分けている面と、普通の心が多くの人にとっては強く働きすぎていますので例えばトランスや瞑想の集中で一旦は抑えてあげないとリクパが出てこない、というのが実態だったりします。
ですので、本来は一続きであったとしても、普通の心を抑えるという過程がないとなかなかリクパは表に出てこないわけです。
しかし、時間が経つにつれて普通の心を抑えるという段階を踏まなくても普通の心とリクパが一続きのものとして動作するようになってきます。
普通の心を抑える動作が必要な段階と、それほど必要でない段階と、必要でない段階とに分かれるわけです。
普通の心を押さえてリクパを表すことを西洋ではトランスとか呼んだりして、手法としては色々ありますけど、副作用のある薬のある方法なんかもあるみたいですけど私はしたことがないのでよくわかりませんけど、他には、音楽を使った方法もあったりします。スピリチュアルを求めている人が特に西洋では何故か騒がしい音楽を好んでいたりするのは、そのような段階ですと普通の心を抑えるために手法が必要で、騒がしい音楽を聞くことで普通の心を忙しくさせておいてその奥のリクパを出させようとしているのでしょう。私はそういう手法は取りませんし、単にうるさい音楽としか思わないのですけど、そのような手法が西洋ではよく取られているように思います。そうは言いましても、そうしてトランス状態にするために普通の心を抑え込む必要があるということは、まだ瞑想がそれほど進んでいない、ということであり、いつまでもそれに頼るべきではないと私は思うのですが、それしか知らない人は死ぬまでトランスに頼ることもあるように思います。
普通に瞑想をしていけばそのようなトランスに頼る段階から抜け出て、次第にトランスに頼らないようになっていきます。そして、それが健全なわけです。
最終的には、普通の心とリクパとが一続きになって、普通の心が働いていようがいまいがリクパが働くようになり、そうなればトランスして普通の心を抑えるということは不要になります。