何でも受け入れることがスピリチュアルではない

2021-04-23 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よくある誤解で、(従順というニュアンスにおいて)「素直」なことがスピリチュアルだとか、大人しいことがスピリチュアルだとか、にこやかに何でも受け入れることがスピリチュアルだとかいう誤解がありますけど、確かにそのような面もあるにはありますけど、本質で言えばそのような態度をするかどうかとスピリチュアルかどうかは厳密に言えばあまり関係がないのです。

これは他人に対する評価および自分がどのような態度を取るべきかという両方の面において関連してきます。そのどちらも、何でも受け入れることがスピリチュアルだという判断基準にしてしまっている人がそれなりにいるわけなんですよね。

更にはこれはそれぞれ2つに更に分けられて、単に勘違いしている場合と、操作されている関係にある場合とがあります。

勘違いして素直なことがスピリチュアルだと考えている場合と、勘違いして他者のスピリチュアル度合いを素直かどうかで判断する場合と、操作することがスピリチュアルになってしまっている場合と、操作されることがスピリチュアルになってしまっている場合があります。

これは微妙な差異で、スピリチュアル的に操作と依存の関係は良くないとはよく言われていますのでそれ自体を自分たちが納得はしておらず指摘されても否定するような状態ではありますけど、素直かどうかという判断基準は結局は依存・操作でしかなくてオブラートに隠されているだけだということです。

ですから、意図的に操作したりしようとするのは論外ですけど、このような罠にかからないためには自身が素直に何でも受け入れることをやめて、一方、他人に対する評価については、他者がスピリチュアルかどうかを判断する際に他者が拒否したからと言って簡単にスピリチュアル的に低いと判断すべきではない、ということになります。相手が拒否したと感じたその態度とは健全なものであり、一方、他人が受け入れてくれているように見えたとしても本当のスピリチュアルであれば他人を受け入れてくれているのではなくて自分と相手の間に確固とした違いがあることをはっきりと認識しているので相手をありのまま存在させてくれているのであり、それは必ずしも受け入れてくれているということではなく、ありのままをありのままとして受け止めているのであって、必ずしも相手を受け入れる必要はなくて、むしろスピリチュアル的に成熟していればいるほど相手を受け入れるということはしない傾向にあるように思います。ありのままに相手を認識してありのままでいさせてくれるものの、相手の生き方はその人のものでありますのでそれを尊重していて、かつ、自分の生き方も尊重していますので自分の生き方を相手に譲り渡すようなことはしません。ですので、素直に何でも聞いてくれるかのように見えても、それはありのままを見てくれているだけであって、相手と同化しているわけではないのですよね。

ここに誤解があって、スピリチュアルというと相手に全てを差し出すだとか、相手と自分の間に違いはないのだからエネルギーでも何でも差し出すとか、全て無条件に愛でも物でも差し出すとか、それがスピリチュアルなんだという誤解がありますけど、スピリチュアルとはそういうことではないのですよね。

割と一般には素直で何でも言うことを聞いてくれる従順な人がスピリチュアルで素晴らしいかのように理解されていますけど、それは割とスピリチュアルの罠のようなもので、他人からエネルギーあるいは結果を奪おうとしている人の誘導にうまくはまってしまっているとも言えるわけです。これが罠だと見抜ける人がどの程度いるでしょうかね? ずっと素直に従順に生きていればそのうち「ご褒美」があって「楽しく幸せに裕福に」暮らせる筈だと、いつ来るかもわからない未来を夢見て辛い日々をシンデレラの可愛そうな少女のように清く貧しく暮らしているのがスピリチュアルだと勘違いしてはいないでしょうかね。

かと言って傲慢になることでもなくて、あるいは、よくあるスピリチュアルの別の誤解のように中間の選択をすることがスピリチュアルでもないわけです。2つの選択があった時に真ん中を選ぶことが仏教の「中道」と勘違いしないことです。そういうことではないのですよね。もし中道がそのようなものであると思っているならば、あらかじめ2つの極端な選択肢を提示されてその中間を選択させられて罠にはまってしまいます。

スピリチュアルとは、どのような周囲にも惑わされない自分の中心に居座ることです。ですから、周囲がどう思ってどのような態度を取っていたとしても自分は影響されませんし、他人を否定もしないわけです。そうなると、他人から見たら「受け入れている」と見えるかもしれませんけど、自分がしっかりとしていると言うこともできます。ただ、柔軟性がないわけでもなくて、必要に応じて柔軟で、しかし、他人にすぐに左右されたりもしないわけです。意思でいかようにも自分を変えられますので、意図的に他者の意見を取り入れることもあれば、ただ相手を理解してそれは他人であるから自分とは違うと考えるのもそれまた自由にできるわけです。

ですけど、スピリチュアルというととにかく従順で他人から言われたことを受け入れて何でも与えて全て他人の思い通りにしてあげることというステレオタイプが広まっていて、そのようなステレオタイプがあるが故に、その通りに行動しなければ他者に対してスピリチュアルの低い人だという評価を与えてしまったりするわけです。誰かのスピリチュアリティを疑っている人がいる時に実際にどのようなことなのか見てみると、スピリチュアルを誤解している人が他者の行動を批判しているだけだということがよくあります。

それは自己の強さとして説明することもできますけど、戦いの強さではなくて根源と繋がっているかどうかの度合いであり、男性的な戦いの強さのことではないのですよね。

人によってはこれのことを愛と呼ぶ人もいて、なんであろうとも受け入れて自分は自己の根源を信頼していて揺るがない状態なわけで、それを愛と呼ぶのであればそうとも言えると思います。愛とは本来は条件付けされないものですので、条件付きの愛ではない本当の愛というのは他者をどうこう以前に自らへの深い信頼が伴っているものなわけです。誰かを愛することだけが愛なわけではないのですね。自らの根源を信頼していてそれが愛と呼んでも良いレベルで動作していさえすれば他者から見たら周囲への愛に満ちていると見えるかもしれませんけどそれは他者を無条件に受け入れてくれるような愛ではなくて自らの根源に繋がっていて揺るぎがないという種類の愛なわけです。そうであれば、他者を理解してありのままに受け入れている、と、表現としてはそのように言うことは間違いではないですけど、その表現には多少の誤解が生じる余地が含まれているわけで、たしかにありのままに受け入れていると言えなくもないですけど実際にはありのままを認識していてそれを否定せずにありのままを見てもらえているということであって、それが受け入れてもらえている、と言っても間違いではないですけど、何かをお願いしたら何でもホイホイと全てしてもらえるという種類の愛とはちょっと違うわけです。

愛とは本当は自己愛と呼ぶこともできて、そのように言っている人もいますけど、自分勝手の愛とも違って、自らの根源に繋がっていることが愛なわけですので、それを自己愛と言うこともできて、そうなると、他者もありのまま受け入れられるようになるわけです。言い換えれば、他者のことをありのままに認識して、視覚でありのままの姿を見るがごとく、相手の表情や声、雰囲気、匂いに至るまでありのままを認識することがありのままを受け入れる、ということであるわけです。

それはひょっとすると冷たく感じてしまうかもしれませんけど、情と比べたら熱感が足りないと思うかもしれないのは確かにそうで、情というのは感情による熱愛ですから、そういう情としての愛も世の中にはありますけど、ここで言っている自己信頼とはそれよりももっと胸の奥のアナハタで感じるような自己愛ですので、情とはちょっと違うわけです。

情の段階では相手を完全に受け入れたり相手に完全に受け入れてもらったりという人間的な情による愛をして、それはそれでありだと思いますし否定はしませんし、アナハタとしての愛を持ったとしてもそのような感情を抱くことはありますけど、情を単体で感じてアナハタの愛がない場合には熱愛や盲目的な愛になるのに対し、アナハタの愛が含まれていればそれは自己愛がベースになっていますから、それほど盲目的にならずに相手をありのままに愛すことができるわけです。

アナハタの愛になると、相手にその理解力がなければ「冷たい」「愛がなくなった」と思ってしまう場合が多々ありますので、このあたりは見抜く側の見る目も必要になってきます。

素直という言葉も2つの意味があって、ありのままを受け止める素直さはアナハタの愛ですけど、従順という意味での素直さは誤解された従順さです。この、誤解された従順さがスピリチュアルかどうかの判断基準として広まってしまっている気がするのです。何かを言った時に黙って受け入れてくれる人がスピリチュアルだ、というお話は、上に書きましたように、ありのままを受け入れるという意味においてはそうですけど、かと言って、従順になってその通りに従うのであればそれはスピリチュアルとは違うわけですけど、従順でないとスピリチュアルではないかのような誤解が広まっているわけです。この判断基準に従ってしまうと他人を従順にすることを強要したりあるいは自分が従順になるように自ら意図したりしてしまいます。

ナチュラルという意味において素直になることはスピリチュアルにおいては重要で、フラットになって他人にも穏やかな態度で接することは一般社会と同様に普通に尊重されますけど、間違ったスピリチュアルでは、素直という意味が従順として理解されていて、他人にも自分にも強要するようになりますので、それはいわば抑圧でもありますので、一見すると素直だけれども心のストレスが沸点に達するとすぐにキレてしまうというようなおかしなスピリチュアルになってしまうわけです。

結局、自分は自分以上のものになれないのですから、まずは自分を受け入れるしかないのでありますが、何か自分と違ったものになろうとして自分の感情を抑圧したり自己愛を従順さと取り違えて例えば神などに従順になればどうにかなると勘違いしているスピリチュアルがあったりしますけど、そのような人は見れば何かオーラが薄い感じでグラウンディングが弱いのです。ナチュラルで素直になるためにはまず自分の全てを受け入れる必要があって、変わることを意図するというよりは今まで自分と思い込んでいた他人の思いを手放した時に自然に自分の姿に戻ってゆくのであって、そうすれば素直だけれども芯があるような状態になって、他人からのコントロールからも離れて、同時に、自分が他人をコントロールしようとは思わなくなります。

補足しておきますと、情それ自体は階梯の1つとして重要で、そもそも情以前の人がいますからその場合はまず情を身につける必要があるのですが、情の先はハートのアナハタの愛になる、というお話です。