意識が目覚めてくると周囲の全員が悟ってるように思えてくる

2021-05-08 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

あたかも全員が悟っていて、目覚めた人ばかりであるように思えてきます。一方、自分自身のことは「よく分からない」という感じではありますけど、少なくとも周囲にいる人は既にみんな目覚めていて悟っているかのような気になってきます。

ですから、周囲の人を判断してあれが良くないこれが良くないと言っている人の中には悟っていないでそう言っている人もいるわけです。もちろん自分が悟っていて他人を指摘している場合もありますけど、自分が悟っていないが故に周囲の人が悟っていないように見えている場合も多々あるわけです。

悟りの差というのは自覚的かどうかという点だけで、悟りの質という点に関しては全員が既に悟っていて皆が悟りの衝動によって突き動かされてありのままの人生を送っているだけです。ただ、顕在意識でそのことに意識的になれているかどうかの違いがあるだけです。

スピリチュアルの世界にいると、スピリチュアルの勉強をしていたり流派に属している人が優れているような錯覚に陥ることがありますけど、悟りに関しては上記の通りで全ての人が文字通り悟っていて、一方、自覚的かどうかという点に関しては、割と一般の人の方も悟っていたりするように思います。

割合で言うとスピリチュアルな業界にいる人の悟りの率は意外と高くはなくて、むしろ悟っていないから修行とかそういうことに興味を持つわけです。

一般社会において、特に子供とか、特に女性は悟りの芽があって、例えば、何気ない草木を愛でることができる心などはそのまま悟りの心になります。

悟りとは超常的力というお話もあるにはありますけど、それよりも、身近な生活を満足して楽しんで景色の美しさをありのままに受け止めたり素敵な匂いを感じて感情を昂らせたりといった何気ない生活の中にこそ悟りがあるわけです。

花が好きな女性は悟りの境地にいると言えますし、山歩きにしても、近所の散歩にしても、家でくつろいでいるときであっても悟りはあります。もちろん仕事にも悟りはありますし、ものを作ること、書類を整理すること、勉強すること、生活の全てに悟りがあるわけです。

そのように悟りとは当たり前のものであるからこそ良く分からないものになっており、特に自分自身のことなので、自分が悟っているかどうかが良く分からないが実は悟っている、みたいなお話は良くあるのです。

笑い話のようなものですけど、誰かが、悟りとは何か、悟りとは何か、と探し求めて、実は最初から知っていた、みたいなお話があります。

これは2つのパターンがあって、悟りとは何かを実は知っていて身近な生活も満足で不満もなく自覚的で生きていたものの悟りという言葉の定義を知らなかっただけのお話。これはただ単に自分自身の状態が悟りだと知ったら終わりです。

もう1つは、全ての人に現れている悟りはもちろん持ってはいたものの意識が曇っていて自覚的に生きることができていない場合。これは、悟りの状態に対して自覚的ではないのである種の修行が必要なパターンです。これは悟りの言葉の定義を知っただけでは不十分なパターンです。

どちらにせよ悟りとは全ての人に既に最初から現れていて、自覚的かどうかだけが違うわけです。既に自覚的な人は悟りの定義を知ったらそれで悟りは終わりなわけです。既に自覚的な生活を送っている場合は悟りとは当たり前のお話になりますけど、そうでなければある種の修行が必要になってきます。

そうは言いましても多くの場合は修行が必要になってくるわけですけど、その一方で、大勢の一般人が修行やスピリチュアルとは関係のないところで普通の生活を送りながら悟りと自覚的な意識とを覚醒させて生きているのも事実なわけです。