ヨーガ・スートラとラマナ・マハルシは同じことを言っている

2021-05-29 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガ・スートラはその最初で次のように言っています。

(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。

「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より

(2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。
(3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。

「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より

一方、ラマナ・マハルシは「私は真我(アートマン)である」と言っています。

静かな心によって存在-意識を絶えず経験している状態、それこそがサマーディである。(中略)活動中でも、静かな落ち着いた状態のままとどまる。あなたはより深い内なる真我によって動かされていることを悟る。(中略)自我のない静寂だけが真理の知識の頂点、マウナ・サマーディ(沈黙のサマーディ)だと賢者たちは言う。無我の状態であるマウナ・サマーディに達するまでは、「私」を消滅させることだけをあなたの目的として探究しなさい。「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」

これらの、一見すると全く違う言葉が実は同じことを言っています。

ヨーガ・スートラでは心の「揺らぎ」を鎮めるとその奥にあるプルシャ(見る者)が現れる、と言っています。
一方、ラマナ・マハルシは静かな心の状態のままに留まると深い内にある真我によって動かされていることを悟る、と言います。

ヨーガ・スートラはサンキャ哲学に基づいて言っていますのでプルシャと言う言葉を使うのですが、概念に多少の違いはあるのですが大雑把に概要を捉えるのであればとりあえずアートマン(真我)あるいは魂と同じようなものだとひとまずは考えておけばいいと思います。

どちらも、心の揺らぎを鎮めるとその奥にあるプルシャ(見るもの)あるいはアートマン(真我)が現れる、と言っています。

これは、段階は多少は違うのですが、概ね、同じことを言っています。

ですから同じことではあるのですけど、実際には、世間ではこれらは割と別のお話として理解されているように思います。

ヨーガ・スートラは体を動かすヨーガ系のお話で、ラマナ・マハルシはヴェーダンタ系のニャーナ(知識)探求の道として理解されています。

確かに方法論としては違っていてラマナ・マハルシはアサナ(体位)としてのヨーガはしなくて真我の探求という方法で人々を導いています。

しかし、結果を見ると、どちらも心を鎮めてプルシャあるいは真我(アートマン)を見出す、という点に関しては同じなのです。

こう言ってしまうと厳密な方からはお叱りを受けることもあるのですけど、とりあえずはこう言う理解でいいと思います。一見すると違って見えても、本質というものは実はシンプルですので実は同じことを言っている、ということも多々あるのです。

この点に関して言えば、例えばインドのヴェーダンタ系の学派の人はヨーガ・スートラをほとんどと言っていいほど認めていなくて、彼らに言わせてみればヨーガ・スートラはその一部だけが切り取られていて元の形が残っておらず、後の人がエゴのために歪んで伝えてしまっているので信用してはいけない、みたいなことを言っていたりします。

ですけど、私が思うには古典が全部残っていないことなんて普通ですし、一部しか残っていなくても、そこに真理はあるものです。

この種の聖典の真偽の論争はどこにでもあって、キリスト教の聖書ではよくこの種のことが言われていますけど、そうは言いましても真実のお話は残るわけです。

実際のところ、自分の頭で考えて自らの経験に基づいて判断しないと何を読んでもうまくいかない、と言うのは現実世界においてビジネスであっても学問であっても真理の探究においても同じなのかな、と思います。書物を絶対的なものとして信じてしまう人と、書物を信頼はしているけれども最終的な判断は自分自身が持ち続ける人との間ではその成長に違いが出てくるものと思います。

私が見たところ、ヨーガ・スートラの内容は概ね正しいと思われますがその解釈はかなり誤解があったりして、そのまま読むのはなかなか大変なように思います。

実際のところ、ラマナ・マハルシは聖者として認められていて基本的にはヴェーダンタのニャーナ(知識)探求の部類に分類されてはいますけど実際には正統なヴェーダンタの学派とは異なりますので、言っていることがヴェーダンタ学派とは異なっています。その辺りに誤解があるのですよね。

ヴェーダンタ学派の方々は経験というものを重視しておらず、むしろ厳格に「経験」と言うものを否定して「知識のみ」が最終目標であるモクシャ(自由。いわゆる悟りの状態)を達成することができると考えています。

ですから、ラマナ・マハルシは割と柔軟でヨーガのことに関しても理解があるのですが、ヴェーダンタを厳格に学んだ人であればあるほどヨーガの特にヨーガ・スートラのことは受け入れていない、と言うのが現状のようです。

ヴェーダンタ学派の言うモクシャとは自由な状態ですが、モクシャ(自由)はラマナ・マハルシがおっしゃるところの真我の実現と同じことかなと思っております。(私はまだそれほどヴェーダンタを深く勉強したわけでもありませんが今のところはこういう理解です。)

ですので、私が見たところ、ヨーガ・スートラもヴェーダンタも同じことを言っていると思うのですが、どうでしょうかね。

説明としては確かにヴェーダンタの方が理路整然としておりますので理屈としてはヴェーダンタの方が現代人にも理解できる内容かと思います。そして、最終的な状態で言うのならば同じことで、道として現在世の中に広まっている体操あるいは体位(アサナ)としてのヨーガの道から進むのであればヨーガ・スートラから入って最終的には同じ目的地であるサマーディあるいはモクシャに到達するのかなと思います。

一見すると違って見えもしますけど、私からすれば、ラマナ・マハルシもヨーガ・スートラもヴェーダンタも割と同じように見えます。

インドは意外に保守的でカースト制度が廃止されてはいるもののまだ社会にはカーストが根深く残っていて特に保守的なヴェーダンタの学派はバラモンの上級階層によって構成されており、一方、アサナ(体位)のヨーガをしているのは割と下級階層の人たちですので、根本的なところで相容れない、というインドの事情もあります。

ですから、インドでこれらの異なったヴェーダンタとヨーガが一緒になって理解し合うには時間がかかって、外から見ている私たち日本の人たちだからこそこうして両者の共通点を見出せるのかなと思います。インドのリシケシなどに行きますと基本的には保守的でカーストごとの団体を構成しているのですが、英語を話して特に外国人と接する人たちの間で最近は両者への相互理解も進んできているように思えて、外国人を受け入れているアシュラムの先生たちと話すとヨーガ(体位)をしている人がヴェーダンタを勉強していたりヴェーダンタ学派の人もヨーガへの理解が進んできているのを見て取れます。ですから、それほどお互いが喧嘩しあう必要もないのかな、と思っています。ですけど、インドの社会に分断が根強くあるのは事実です。

そのような社会の階層の違いを踏まえないと、例えば、インドのヴェーダンタで学んだ人がインドの流儀や考え方を日本に持ち込んで「ヨーガ・スートラは良くない聖典だ」みたいなことを言ったりしますけど、それはインドのカーストが分断されていてお互いに交流がないのでお互いに理解がないだけのことで、我々、日本人であればどちらにも行けますので、お互いの良いところを理解し合うのがいいのかなと思います。

個人的に思うのは、そのようなインドのカーストや保守に基づいた悪いところを日本に持ち込まずに、ヴェーダンタやヨーガの良いところだけを日本に持ち帰ってください、と思っています。

そのように外国人として日本人としてインドのヨーガ・スートラとヴェーダンタあるいはラマナ・マハルシを見た時に、方法論は違えどもどちらも到達点は同じように見えるのです。

インドで保守的に勉強した人に言わせればこの意見には異論があるでしょうけど、私が見たところ、私の実体験に基づいて言えば、同じであると言えると思います。