不還果と阿羅漢とサマーディ

2021-06-11 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

仏教の言い方で不還果(ふげんか)とか阿羅漢(あらかん)という悟りの階梯の段階がありますけど、これは、仏教の説明に基づきますと煩悩が消滅とかそういう表現の言い方をしますので両者ともに違いが分かりにくいところがありました。

不還果は仏教の悟りの4つの階梯の一つで、流派によって細かいところは違うようですけど、概ね、以下のように分類されています。

1.預流果 (よるか)
2.一来果 (いちらいか)
3.不還果 (ふげんか)
4.阿羅漢(あらかん)

私は仏教は専門ではありませんので詳しくはやりませんけど、大体の私の理解は以下の通りです。

1.預流果 (よるか)
悟りの一瞥。

2.一来果 (いちらいか)
集中瞑想の上達。シャマタ(止、シネー)の熟達。

3.不還果 (ふげんか)
サヴィカルパ・サマーディ。対象のあるサマーディ

4.阿羅漢(あらかん)
ニルヴィカルパ・サマーディ。対象のないサマーディ。煩悩の消滅。

仏教系では「煩悩の消滅」だとか「私の消滅」みたいなお話がよく出てきて、現象としてはその通りなのですけど、それよりは、実際には大我の目覚めとして理解するのが正しいように思います。大きな私が現れてくることを(小さな)私の消滅、と呼んでいるわけです。仏教の言い方はこのあたりがコンテキスト依存で、とても分かりにくいように思います。

テーラワーダ仏教系のこの種のお話や書物を聞いた時には、これらの内容がいまいち理解できませんでしたが、今から見直せば、確かにその通りだと感じます。今となっては実際にそれがどういうことなのか分かりますので内容をコンテキストに則して理解できますけど、昔は、なかなかこの辺りの概念を理解するのが難しかったように思います。

個人的に思うのは阿羅漢とか仏教の言い方は「結果」のお話だということであり、それはそれとして正しいのですけど、それよりは、チベット系のお話の方がしっくりきます。

世間で、仏教の階位や称号として阿羅漢とかもあるみたいですけどここで言ってるのは称号のことではなくて実際の境地のお話です。