<ギーター解説書の続きを読んでいきます。>
次の質問は、「ヨガの道は神の実現への独立した手段ですか、それとも知識の道の補助として神の実現に貢献しますか?」です。この質問に対する私たちの回答は、ギーターがこれらの両方の見解に同意しているということです。言い換えれば、ギーターは、ヨガの道を、神の実現または解放への独立した手段でもあり、又、知識の道の補助でもありますから、両方であると考えています。努力者がそう望むなら、彼は学問知識の助けなしに、カルマヨーガの実践を通して直接最高の完成度を達成することができます。または、カルマヨーガを通して知識の道へのアクセスを得て、彼は知識の道を踏むことによって神を実現することができます。彼が採用すべき2つのコースのどちらかは、彼の好みまたは素因によって異なります。ヨガの道が独立した手段であるということは、V.4と5、そしてXIII.24で主によって明確に確認されています。神のみのために働き、神に心を留め、神の恵みによって神を悟る者は、いくつかの場所で主によって宣言されています(VIII.7; XI.54、55; XII.6-8)
無関心な行動と崇拝の両方が、知識の道の補助としての役割を果たすこともできます(V.6; XIV.26)。 しかし、ニャーナヨーガ(Jñānayoga, 知識のヨーガ)は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態を特徴としているため、知識の道はバクティヨーガ(献身のヨーガ)あるいはヨガの道を補助することはできません。と言いますのも、それらの道では崇拝者が神を彼とは異なるものと見なすからです。知識の道の信者が後で彼の傾向や意見が変わったことに気づき、知識の道をあきらめてヨガの道に行き、そしてヨガの道を通して神を実現するならば、それは全く別のことです。