瞑想は止観と言われていますように「止(シャマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」の要素があるわけですけれども、サマーディ(三昧)に至る以前であれば基本的にシャマタの段階なわけで、そこでは、心を鎮める、ということを行います。
静かに生活し、心を穏やかにして、雑念がなるべく入ってこないようにします。とは言いましても雑念は止まることがありませんからこの段階ではまだ雑念に悩まされることも多々あるのですけど、なるべく静かな環境を選ぶことで心を穏やかにします。穏やかにすることで心のコントロールがしやすくなります。瞑想を続けることで雑念が減って、心が静まった瞬間が休まる時間になります。雑念は途切れ途切れに現れますけど、雑念が出てから次の雑念が出るまでの間が広がってゆき、その、雑念が出ていない「隙間」にとても寛げるようになります。これがシャマタの段階です。
シャマタにおいては「心の静止」が重要になってきます。心が動いているときは「苦」で、心が止まった時は「楽」になります。
その段階を経て、サマーディにまで達すると、段階的な変化ではあるのですが、心が動いている時でも休まるようになってきます。
私の場合、最初は物理的な体に対する観察(ヴィパッサナー)としてのサマーディから始まったように思います。その後、最近は心を観察するサマーディの段階に少しずつ入ってきたように思います。
これはとても微妙なお話で、例えるならば昔は「砂の上に文字を書くような心の動き」で、今もそれは基本的にはそうなのですけど瞑想をしていると砂の文字の濃さが減ってくる瞬間があって、その時は心をその背後から観察できていて、背後から観察できているときは心のヴィパッサナー状態で、そのように心のヴィパッサナーができている瞬間は心の動きが「砂の上の文字」ではなく、「空中に浮いている文字」のように、自由な心として認識されるわけです。
これは、シャマタの段階で心を鎮めていた時とは全く違って、心の観察ができる範疇において逆に心を意識的に動かしてゆく、ということが訓練になるように思います。
心を鎮める、という動作も基礎として必要で、心のサマーディ状態から落ちてしまった場合に心を鎮めることで心のサマーディ状態に引き戻す、ということを行います。その基礎があった上で、心のサマーディを強くしていくために可能な限り心を意識的に動かす、ということをするわけです。
それは割と普段の生活において行えることで、仕事をしながらなるべく心のサマーディを保つ、ということができるかと思います。
まだ私の場合は心のサマーディの力が弱くてそれほどではありませんけど、ことあるごとに気付きを深めることになります。
これは、この前段階であるシャルドルにおいて「時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する]]ということとは違って、心を動かし続けていて、その背後からなるべく観察してあげよう、というお話です。
おそらくは、シャルドルにおいてはまだ心のトラウマがまだそれなりに残っていたのですが、最近になって最後の大きなトラウマが解消されたように思えて、それ以降、シャルドルのように雑念が自己溶解というよりは、心が動いたままで観察するという心のサマーディの段階に少しずつ入ってきて、少しずつではありますがランドルに入ってきたようにも思います。
究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは、文字通り読むと雑念のことかとも思っておりましたが、雑念やトラウマと大きく対峙するのはシャルドルまでで、この段階になると、雑念やトラウマはまだほんの少し残ってはいるもののそれに悩まされることはほとんどなくなって、トラウマの力もかなり弱くなって、そうなると心のサマーディ状態が可能になってくるのかな、と思います。
ただ、究極的とは言ってもランドルの中にも段階があって、ランドルの初期状態としては心のサマーディはまだ弱くて、少しこの状態が続きそうな感じです。