「みんな一緒」とか言うスピリチュアルが息づいているのは世界に少なくとも3つの種類があるように思います。
1つは先住民族の精神性
1つは宗教者たちの精神性
1つは他国への静かな侵略(工作)をする時に反発を減らすための道具
まず、割と原始的なワンネスのスピリチュアルは原始的な先住民族の暮らしの中に息づいています。そもそも、原始的な社会においては「所有」の感覚がありませんので、そもそもワンネスという概念が当たり前すぎるわけです。ワンネスというのはその社会においては絶対的に正しいわけです。
同様に、先住民族というわけではないですけど韓国のように国全体の精神性が未熟な場合も他者と自分の違いがわからなくて、同様の精神性が根底にあったりします。これは必ずしもスピリチュアルという形で現れないこともあって、生活習慣や周囲の国に対する対応としてそれらの精神性が表れてきます。例えば、日本由来のものを韓国の人が「韓国由来だ」と主張して特許を取ったり普通に韓国発祥として商標登録をしたり商売しようとしますけど、それは精神性がまだ未熟なので、他者と自分の区別ができない、そもそも最初からワンネスの状態で生きていて、他者が行ったものも全て「自分がやった」こととして認識してしまいますから、文章を読んだりしただけで「これは自分の考えだ」と思ったり、ちょっと勉強すると「これは自分が考えた」みたいに本気で思ってしまったりするわけです。韓国のような社会の精神文化はこのように先住民族と比べて考えてみるととてもよく理解できて、社会の根底として、いわばワンネスがあるわけです。これはいい意味ではなくて、先住民族のように自分たちのルールで生きているだけならばいいですけど現代のように他者や他国と交流が盛んな社会において韓国のように「あれもこれも韓国が発明した」みたいなメンタリティで主張されてしまうと周囲としては迷惑なわけです。私は割と、韓国と先住民族を同じカテゴリで考えています。
スピリチュアルの人は一定数この種の「原始的なところに帰りましょう」という主張に寄り添っていて先住民族のスピリチュアルを信奉していたりしますけど、実際のところ、それは一周遅れのスピリチュアルになります。
スピリチュアルは合一と分離、また一つ上のレベルでの合一と分離ということを螺旋状のように繰り返しながら成長します。割と原始的なスピリチュアルで合一を経験して、その後、分離を学ぶわけです。そしてその後、また一つ上のレベルにおける合一を学んでゆきます。
今の時代はカリユガとも呼ばれている分離の時代で、先住民族は割とそのような中でも合一の精神性を保ってきたわけですけれども、それは、せっかくカリユガで分離を経験できる時代だったのにしっかりと時代に即した学習をしてこなかった、とてももったいない状況なわけです。
これからどんどんと合一の時代になりますけど、その時、昔ながらの素朴なワンネスでしか生きてこなかった人と、一旦は分離を経験してそれからまた合一になった人との間でもはや乗り越えられない深い溝ができると思います。単なる素朴なワンネスと分離を経験してからの合一に至った人では物事に対する理解の深さが段違いで、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスに至った人を理解するのはとても困難かもしれません。そのくらい意識に差がありますし、そのくらい違ってしまうと、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスを全く理解できなくて誤解して解釈してしまうことすらあるように思います。もはやお互いに理解し合うことは難しくなるのかもしれません。
じゃあ、今世界に大勢いる物質的な物欲的な人はそのような分離のスピリチュアルの段階にいるかというとそうでもなくて、実際は、そのような大多数の物質的な人々はここで言っているお話よりもう1周か2周前の分離の状態にいるわけで、分離の段階とは言っても何周か違っているので、大局から見ればどちらもスピリチュアルの一段階ではありますけど物質しか見えていない人は獣に近くて、精神的なことがそれなりに分かった上で一旦分離を学んで更なる合一のスピリチュアルへと行こうとしている人とは寄って立つところが全然違っていて、似たようでいて全く違ったお話であるわけです。