「有」の静寂の境地に何度も至る

2021-12-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想をしていて、意識がはっきりしてくると「無」の静寂の境地にはもはやならず、常に「有」の静寂の境地になります。

「有」であるということは奥深い意識が常に働き続けていることで、それがベースとなった上で表層の意識あるいは言い換えれば表面に出ている雑多なオーラのザワザワ感が静まって一段階づつ静寂の境地が深まるわけです。

この種の静寂の境地は最初は極端に感じられて「無」とも言える寂静の世界に導かれるわけですけれども、最初こそそれは寂静の世界と思えた世界ではありますが、次第にその寂静の世界に対する見識が開かれてくるとそれは決して寂静ではなく、寂静のように見えつつもそこには微細なざわつき感のある世界になっているわけです。

瞑想ではそれは文字通り「世界」として感じられるのですが、そうは言いましても感じられるのは私の肉体及び意識を中心とした自分自身の世界ですから、最初こそそれは世界として感じられますけど、それは実際には自分自身のオーラの状態なわけです。

元々自分自身のオーラがざわついていて、最初に「無」の静寂の境地に入るときはかなりの「壁」を超えたように感じれますが、やがて「有」としての静寂の境地になってくるとオーラがそれなりに安定していることは普通になってきて、更に少しずつ静寂の境地を深められるようになります。その時、感覚としては同様に静寂の境地として感じられるものの、段階の違いとしてはそれほど大きくなくて、少しずつ深めてゆく感じになります。

最初は「無」の静寂の境地に入っても日常生活で割とすぐに元の状態に戻ってしまいますけど、また瞑想をすることで同様の境地に入ることができます。それを繰り返すうちに安定してきて、次第に静寂の境地が日常生活にまで広がってゆきます。

そうしてベースが出来上がってゆくと瞑想をする時にもより一段階深い静寂の境地に入ることができるようになってくるのですが、そのベースというのはいわば瞑想状態の継続のことであり、比喩的に言えばそのことが「有」になるわけです。その、「有」としての瞑想状態の日常生活における継続、そのことを日常生活におけるサマーディとも表現できるわけですけれども、その、ある程度の覚醒状態が日常生活にまで続いた上で、更に瞑想をすると「有」の覚醒状態・サマーディ状態をベースにしてもう少し瞑想を深めることができるわけです。



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