これは、クンダリーニがサハスララに到達して静寂の境地、無になる段階から創造・破壊・維持の意識である6次元のハイヤーセルフが現れる段階にかけてを説明しているように思います。
■人牛倶忘
いわゆる悟り、静寂の境地、無、など各種に言われている境地、寂静の世界がこの段階のように思います。悩みは消え去り、そこは正法眼蔵で言われているような静寂の状態になります。
■返本還源
一方、これは一般的には「悟りを得た後の状態」と理解されていて、それらの解釈によれば「悟りの寂静の境地、無を知った者は日常生活を普通の人として、しかしながら生まれ変わった人のように生き生きとした現実の中で生活するようになる」みたいに説明されているように思います。
このような解釈も成り立つとは思いますが、しかし、それだけでは私が思うに、この状態を表現するのに不十分だと思うのです。そういうことであるならば、わざわざ返本還源を持ち出すことなく、人牛倶忘に至った人がその寂静の世界を日常生活にまで延長して豊かに生きることができる、ということで十分のように思うのです。この状態を言い表すならば、わざわざ次の段階を持ち出す必要はなく、人牛倶忘がゴールとして相応しいと思うのです。
私の解釈によるならば、わざわざ返本還源という段階を付け加えたのは、それが明らかに違うもので、具体的には創造・破壊・維持の意識であるところの、いわゆるハイヤーセルフ或いはコスミック・ハイヤーセルフ・クンダリーニなどと言われている段階に達したからこそ、この段階が意味あるものとして生きてくるように思うのです。
人牛倶忘の段階においては悟りはまだ「静寂の境地」で、現実との接点にあたっては、「はっきりと物事が見えるが、何か、現実と認識の間に薄い光の膜がある」という状態になります。それは一応は悟りの一種と見做しても良いかもしれなくて、一応の到達と言えますけど、その段階ではまだ、現実に対していわゆる「地に足をつけた」状態にはなっていないわけです。
ハイヤーセルフのエネルギーは普段は空高く浮いていて、返本還源に至る前の人牛倶忘或いはそれ以前の段階においては「天のエネルギーとして認識されます。一方、返本還源に至ると自分と融合して一体になって動き始めます。
この種の、ハイヤーセルフのエネルギーは本来は天のエネルギーですので「地に足がついた」というようなこととは基本的には無縁であった筈なのですけど、その天のエネルギーがアナハタを通じてやがては体全体と結びつくことにより、天のエネルギーであるところのハイヤーセルフと、地のエネルギーであるところのクンダリーニとが結びついて新たな認識の状態に至るのです。そのことで、認識としては「地に足がついた」ということになりますけど、それは単純にクンダリーニが活性化した時に起こるような「地に足がつく」状態とはまた違ったもので、基礎としての「静寂の境地」がありつつも、それと同時に「地に足がつく」という状態になります。
このように、クンダリーニがサハスララまで満たさることによる人牛倶忘の静寂の境地を基礎としていつつも天のエネルギーであるところのハイヤーセルフと繋がった状態が返本還源であると思うわけです。
であれば、私はまだ次の段階である入鄽垂手はわかるようでいてわからないですけどなんとなく先は見えていて、この今の返本還源が進めばやがては現実と更に融合するわけで、そうなれば入鄽垂手で言われているような状態になるのかもしれない、と思っております。