小さな家、小さな部屋で小さな人生を送っていても、特に何があるというわけでもなく、ただ 有難い と感じて涙が少し出てきます。そのような瞑想をします。
これは、有難いと思うとか、そのような行為は不要で、ただ、結果として感謝の気持ちが出てくるものです。ですから、感謝をしようだとか、感謝をしなくてはならないだとか、そういうことではなくて、ただ、行動として瞑想をすると、特に感謝を意図することもなく、ただ不意に結果として感謝が湧き出てくるわけです。同様に、特に涙を意識したわけでもなく、涙を意図したわけでもなく、涙を流そうとしたわけでもなく、ただ単に瞑想をした結果として感謝が表れて、その感謝に伴って涙が出てくるわけです。
特に対象があるわけでもなく、条件があるわけでもなく、条件なしに、例えば「○○だから感謝をする」だとか「○○に対して感謝をする」というようなことではなく、ただ単に感謝をして涙が出るわけです。
目の前に大きな仏像があるわけでもなく、立派な祭壇があるわけでもなく、大自然があるわけでもありません。(私の部屋には、片隅に小さな祭壇があるくらいです。)
強いて言うならば最近は天気が良くて朝日を浴びるとエネルギーが更に満ちてくる、ということはあります。その太陽のエネルギーで更に感謝と涙が深まる、と言うのはあるにはあります。ですから、理由があるとすればエネルギーの高まりであり、エネルギーの高まりが故に感謝と涙が出てくる、と言うお話はあるにはあります。
そもそもこの感謝のエネルギーの源は(6次元の)ハイヤーセルフであり、それは創造・破壊・維持の意識として比喩されるところの神意識でもあるわけですけれども、条件があるとすればエネルギー的に体全体に「満ちる」と言うことは必要に思います。
瞑想をして、クンダリーニをサハスララにまで上げることとハイヤーセルフを身体中に満たすと言うことをすると自然とハートでただ「有難い」と思う状態になります。
それは、何か大きな家に住むだとかリゾートで安泰に暮らすだとか海岸沿いで綺麗な静かな浜を見るだとか、そのような条件なしに発生するものです。家にいて、ちっぽけな家に住んでいてもそれは可能なわけです。
とは言いましても最低限の環境というものは必要でそれなりの清潔さだとかカビっぽくないだとか、あまりにもジメジメしていないだとか、そういう基本的なお話はありますけど、そこまで高いハードルなしにこの種の感謝はできるものなわけです。