ハートでただ「ありがたい」と思う瞑想は、ゾクチェンの言うところの以下の境地そのものであると言えます。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。(中略)一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
密教、あるいはゾクチェンなどでは「身」「口」「意」と言う3つがよく語られます。これらは流派によって解釈が微妙に異なっていて、例えば「体と口と心」あるいは「行動・言葉・意志」はたまた「体・エネルギー・意識」などと解釈されます。
しかし、それは説明のためだけのことで、私の今の感覚で言うと、「既にそれらは統合されている」と感じるのです。
これはどう言うことかと言いますと、かつてはそれらの3つの要素それぞれについて考えてきました。しかし、この(6次元の)ハイヤーセルフはそれら3つの要素の次元を超えているようなのです。ですから、もはやそれら3つの要素は統合され、形すら見えず、統合されているのです。
それはざっくり言うとサマーディということでもありますけど、サマーディという言葉があまりにも多く使われすぎていて何のことだか逆にわからなくなってしまっており、しかしながら、言葉で表現するならばサマーディであることには違いがないわけです。
密教などの修行をすると身口意(しんくい)に対応するそれぞれに対峙する機会があって、例えばエネルギー的なマントラであるとか、静寂の境地を追い求めて経験することになります。そして、経験としての「楽」などを体験することになります。
それらの要素は一つ一つとしてあるのですけど、この段階になると統合されていて、既に要素として分けることができなくなってしまうように思います。
要素に分けようとしても分けることができず、以前のように、単に「楽」だけ、あるいは「静寂の境地」だけ、などと分けることができなくなっている以上に、かつて理解していた「言葉としてのそれぞれの要素の説明」も、全ての説明が一応は正しいものの、完全な説明とは言い難いものであると感じられるわけです。
この段階になると言葉としての説明は便宜上のものでしかないとはっきりわかるようになるように思います。
もちろん理屈としてはそのことは割と最初からわかっていたわけですけれども、それでも、今までは何とか言葉で言い表そうとしてきて、それでも何とか言い表せているつもりでした。
しかしここにきて、もはや言葉できちんと表現することは無理だ、という、言葉からの離脱のようなものが現れてきて、そうなれば、わざわざ自分でしっかりと表現する努力をするよりも、既存の説明を使いまわしても同じなのではないか、という気もしてくるのです。どちらにせよ、ありのままを表現できる言葉などありはしないのだから、表現する努力を捨てる、という選択肢もあるのかもしれない、という、表現に対するある種の諦めのようなものも出てきています。
既に書物や言葉では十分に語られていて、わかる人にはわかるし、到達できる人であれば到達できる筈です。言葉の表現としてはもう十分かな、という気が何となくしてきております。
書物に記された謎のようなものも大体は個人的には解いた感じで、表現としてはそれぞれですので解釈の余地は残りますけど、全体的な概要としての方向性で更に探求したいものはそれほど残っていない感じです。
書物を探してみても私の今の段階より先を書いた本はほとんどないですし、言葉などで表現するにはこのくらいが限界なのかもしれません。残るは神智学で示された段階あるいはライトボディで示された階梯を後は進めばよくて、もはや言葉の説明はそのくらいで十分のように思えてきました。