まだ小さく残っていた慢心とエゴ(自我)が力を失いかけ、「自分(エゴ)なんていない方がいいよね」と悲しいことを言って力を失って心の中でたたずんでいます。その時点ではまだエゴ(自我)と胸のアナハタ(ハートチャクラ)との間には微かな分離があり、同じ体の中ではありますけど、一応は別のものとして存在していたように思います。
そのように悲しいことを言うエゴに対して、アナハタのハイヤーセルフの意識は「そんなことないよ。この地球の物理的な世界で生きるには肉体がないと生きられないように、ハイヤーセルフとしての本当の私と肉体を結びつけて意志の通りにこの現実を生きるために、エゴというものも必要なのですよ」と、優しく語りかけます。
実際には両方とも自分の中に存在していて、外から話しかけられたものではないのですけど、自分の中にある胸のアナハタに強く宿っているハイヤーセルフの意識が、それよりちょっと外側にくっつくようにして(外側と言っても体の中ですが)エゴが存在しているのです。
今まではエゴがしゃしゃり出ていて慢心が多少なりとも残っていたから物事がスムーズに行かないこともあって、本来はハイヤーセルフが主導していればもっと遥かにうまく行っていたはずなのです。それに気付けば気付くほどエゴは自分が邪魔な存在なのかと思って、上のように悲しいことを言い始めるわけです。
ですが、ハイヤーセルフはそれを包み込むようにエゴを受け入れます。肉体と同様に、エゴもハイヤーセルフにとって必要なものだからです。今までは、エゴがしゃしゃり出ていたが故にハイヤーセルフの意識を膜のように覆い隠していました。その膜が次第に薄くなってきたとはいえ、多少は存在していたわけです。その、膜としての部分が、(エゴが強い場合は文字通り膜ですが)既に膜としてではなく、多少の分離の意識としてハイヤーセルフの周囲に留まっていたように思います。
そうしてエゴが自分から身を引き、ハイヤーセルフに任せます、と言った時、ハイヤーセルフもそれを受け入れ、そうするとエゴが消えるというよりはエゴがハイヤーセルフに吸収されて一体となり、エゴがあるようでいてないような状態になったように思います。
慢心とかエゴとかいう気持ちは、たぶんなくはないのですけど、少なくとも分離という観点から言うと既にハイヤーセルフと統合されたように思います。視点がハイヤーセルフが主となり、エゴが観念したことを「受け入れ」て、ハイヤーセルフによるエゴの「吸収」が起こったように思います。
■スピ用語の「明け渡し」がよくわからなくなる
エゴが残っている状態ですとエゴから他のもの、例えば高次元の存在だとかハイヤーセルフ等に「明け渡す」という理屈になるのかもしれませんけど、実際にはそういうことではないのです。明け渡す、ということは2つのもの・存在があって、片方から片方に明け渡す、ということかなと思いますが、高次の存在も自分自身ですので、実際は、明け渡す、というよりもエゴがハイヤーセルフに吸収されるという方が正しいのです。
ヨーガでは純粋精神のことをプルシャと言っていて、純粋精神(プルシャ)に立ちかえることが悟りに近い状態と定義しています。
ヴェーダンタでは本当の自分はアートマン(個としての視点)あるいはブラフマン(全体としての視点、この宇宙の全て)としており、視点の違いだけであってアートマンとブラフマンは実は同一としています。
ハイヤーセルフはプルシャあるいはアートマンと同等とみなすことができて(流派の方には異論もあるかもしれませんが)、そうすると、エゴがハイヤーセルフに吸収されるという過程は、エゴが自分自身を自覚してプルシャあるいはアートマンが本当の自分であることに気がついて明け渡していく過程であると言えばそうなのですけど、実際には、そもそも最初からアートマンやプルシャとエゴは分離をしていなくて、最初から一体であるわけです。それがどういうことかエゴの方が錯覚をして別物であるかのように振る舞っていたものですから物事がうまく行かなかったりするのですけど、そのように分離している状態ですと、確かにプルシャとアートマンとは同一ではあるのですけど、そうは言っても、エゴのところだけオーラが少し偏った状態になっているわけです。
その、エゴが偏っている状態はヴェーダンタでアヴィッディアー(avidyā)(あるいは仏教で無知)と言われていてエゴは錯覚でしかなくて本当の自分はプルシャあるいはアートマンであるのにエゴが自分だと勘違いしている状態なわけです。そのような状態ですと、そもそも錯覚である自分自身が「明け渡し」をするという認識もあるにはありますけど、そもそも最初から分離していないのですから、「明け渡し」という概念すらも錯覚なわけです。
錯覚ではあるのですけど、最初の段階としては確かに「明け渡し」から始まって、そして、最後はハイヤーセルフにエゴが「吸収」されてしまうわけですけど、そうなると、もはや明け渡しも吸収もなくなって、ただハイヤーセルフがあるわけです。ハイヤーセルフの中には既に吸収された、既に一体となったエゴがあるにはあるわけですけど、一体となった以上はもはや(分離の意識に基づいた)「明け渡し」も「吸収」も存在しないわけです。
このような状態になると、スピでいう「明け渡し」とかいうのも、何のことかわからなくなります。
記憶と理屈でどういうことかは一応分かりますけど、そのくらいのお話になります。
■エゴが吸収された後、ハイヤーセルフとしての自覚が出てくる
もしかしてキリストのいう三位一体とはこういうことなのかもしれません、とも少し思いましたけどキリスト教は詳しくありませんので違うかもしれません。
実のところ、言葉で言うと似たような状態は何回か、あるいはもっとあったわけですけれども、それらの時はいずれも、まだエゴとハイヤーセルフとの間に溝があったように思います。次第にその溝が埋まってきて、今回、エゴがハイヤーセルフに吸収されました。それ以前の状態ではエゴがハイヤーセルフの外側で動いて時には(小さくなったとはいえ)エゴが意識の中で優勢になることもあったのに対し、今回の後では、エゴそれ自体の大きさ自体はまだ少し残っている感じではありますが、そのエゴの全てがハイヤーセルフに包まれて、エゴがハイヤーセルフの中に吸収されている状態のままハイヤーセルフの中のエゴが少し動く、という感じに変わりました。これは似ているようでいて大きな違いで、特に意識しなくても普通の普段の意識の中でエゴよりもハイヤーセルフの方が優位になった、と言うことでもあるように思います。
以前であってもハイヤーセルフの意識は出ていましたがハイヤーセルフとエゴとがまだ僅かに分離していたのに対し、今回の状態ではエゴがハイヤーセルフに吸収されたことによりエゴという部分はあるにはありますけどハイヤーセルフの方が優勢になって、ハイヤーセルフとしての意識としての自覚が少しずつ出てきたように思います。
おそらくは一気になることはなくて、最初はただ単に胸の奥の創造と破壊と維持の意識として感じていたわけですけど、そのハイヤーセルフとしての意識の自覚が少しずつ出てきたのかな、とも思っています。
本山博先生の著者で、神秘体験をしてすぐに自覚が現れることはなくて、普通は、数年をかけて少しずつ自覚が出てくるものです、みたいなお話を読んだことがありますが、これはそういうことかもしれません。
最初はただ単に胸の奥の神意識としての自覚しかなくて、それによってエゴが消え去る恐怖及び神意識に委ねる心地よさとが混在していました。
今は、既にエゴの方が観念してエゴがハイヤーセルフに(いわゆる)明け渡しをして、とは言いましてもハイヤーセルフの意識からすると明け渡しではなくエゴを吸収するような形で統合し、そうするとハイヤーセルフの意識が表に出やすくなって、少しずつハイヤーセルフとしての自覚が出てきたように思うのです。