ヨーガではアムリタ(甘露)のお話が度々出てきて、例えばハタヨガではビンドゥと呼ばれている後頭部の上の方にある箇所からアムリタを出すためにケチャリ・ムドラや各種の行法を行ったりしますし、アユールヴェーダあるいはヒンドゥの神話では乳海攪拌(にゅうかいかくはん)というお話で神々がアムリタ(甘露)を飲む、という場面が出てきます。
ハタ・ヨーガ・プラディーピカー
4・45: 日(ピンガラ気道)と月(イダー気道)の中間にある、手がかりのない間隙である虚空のチャクラ(プール、たまり)において成立するムドラーがケーチャリーと名付けられる。
4・46: ソーマ(月)から(甘露の)流れが生ずる...(中略)
4・53: 月の孔から流出した甘露を持ってカラダを、頭から足に至るまで、あまねくうるおすべし。そうすれば、すぐれたカラダと勇気と体力を得るに至るであろう。
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著) 」より
ここに来るまで特にアムリタ(甘露)のことはそこまで意識していなかったわけですけど、ふと、気が付くと、どうやら今の状態でサハスララからハートまで降りてくる空気の塊のようなオーラは、見ようによってはアムリタ(甘露)なのかもしれない、と思うようになりました。
ただ、アムリタ(甘露)というと「水」で、この水というのは本山博先生の解説によれば水というのはアストラル的なものだそうで、本山博先生が直接アムリタ(甘露)に言及しているかどうかはわかりませんけど、水という比喩がなされているからにはアストラルのことだと思われますが、私の場合、水というよりは「空気」という感覚ですので同じものだとは断言できませんけど、これは人によって感覚と表現の違いだけで同じもののような気も致します。私の場合、割と初期から肌の表面のオーラ感覚を水というよりは空気として感じ取っていて表現しておりましたので、おそらくは同じかな? と今のところ仮定しておくことに致します。
同じものであるとすれば、確かにこの記述のうちそれなりに納得で、一般的にアムリタ(甘露)は頭の後頭部のビンドゥと呼ばれているチャクラから出るとされているのですけど、その記述には書物や流派によって多少の差異があって、私の場合はチャクラというよりも頭の上の方の全体が丸ごと発生源あるいはそこから入ってくる感じで、頭の上の方が空気のような感覚で包まれた後にそれが「ふっ」と「するっと」ハートまで降りてきますので、空気といえば空気ですけど、ゼリーっぽい感じもありますので、水というほど動きやすくはないですけどゼリーが水かといえばそう言えなくもなくて、これがアムリタ(甘露)と言っても、そう間違いではないようにも思います。
このアムリタは、ハタヨガのとある聖典では「(ジャーランダラ・バンダというヨガの手法を使って)喉より下げずに飲むべし」(シヴァ・サンヒター 4・60、続・ヨーガ根本経典P232 参照)と言っていたり、一方、「身体中に巡らせるべし」(上記引用文参照)、みたいな一見すると矛盾した記述が別の聖典にあったりしますけど、喉で止めるというのは私にはピンとこなくて、バンダをするよりも普通にハートに満ちさせて身体中に巡らせる方が効果が高いように思います。喉がよく通る人はバンダとかも必要なのかもしれないですけど元々私は喉の通りはそこまで良くないですので、そういうことも影響しているのかもしれません。
これを飲むと元気になる、と言うのは聖典で言われている通りで、飲むというのはハートまで下ろすということですけど、それでなくともサハスララがそれなりに開き始めてからはサハスララからエネルギーを取り込むことが実感できていて、今回更にそれが強力になってアムリタ(甘露)っぽくなってきたようにも思います。
もしかしたら今後、更にそれっぽくなって濃くなれば更に甘露(アムリタ)っぽいですけど、それは今後様子を見ていきます。