宇宙が創造された目的は「理解」

2024-12-05公開 (2024-11-30 記)
トピック:スピリチュアル: 理解

多くのスピリチュアルで類似のことが説明されています。詳細は異なれど似通っている部分もあれば、そうでない部分もあります。

まず最初に、ワンネスがあったと言われています。何も分かれていない「全体」が「満ちて」いて、そこには時間もないので過去も現在も未来も存在しないが故にあらゆる時においても(そもそも時がなく)常に不変でした。

それは「意識」そのものでもありました。今も、人間の奥深い意識はこのワンネスそのものです。それは平穏な意識です。平和で、争いもありませんでした。

そして、そのワンネスの意識はワンネスである自分自身を「知りたい」と思いました。自分自身のことがよくわからなかったのです。最初は、ただまどろんでいました。そのままでは、理解が進まなかったのです。

そこで、自分を2つに分けて、お互いに見合うことにしました。外側から自分自身を見てみるのです。2つに分かれたことで最初よりは見やすくなりましたが、まだ、それでもよく分かりませんでした。そこで更に分け、具体的なものに固定化する、ということを何度も階層的に行いました。分かれて固定化するうちに、次第に物質的なものになってゆきました。

ワンネスであった時は、微細なものよりも遙かに無限に微細なものでした。物質ではないもの、それがワンネスでした。やがて粗大になり微細な物質になりました。それは流動的な物質でした。やがて流動的な物質だけでなく固定的な物質ができてきました。そして、長い時間をかけて今のような宇宙ができました。銀河や星々、惑星もできました。

そのうちの1つが我々の住む地球です。

このように、元々は「知りたい」という欲求から幾つにも分かれ、そして、今の宇宙が存在しています。

最初はただ知りたい、というだけでしたが、分かれてみると、様々な幻影(マーヤー)も生まれました。マーヤーとは、本来はないものであるのにあたかも存在するかのように感じられるものです。もともと自分自身のことをあまりわからない状態だったことに加え、分かれてしまったことで繋がりの感覚をも失い、不安や恐怖などの感情も生まれました。多くの幻影(マーヤー)が生まれました。一方、支え合ったり理解し合う愛というのものも存在していました。限定された愛です。ワンネスであった時はただただ満たされていて変わることがなく平穏な意識でした。それが、物質的になることで変化が生まれました。

スピリチュアルではワンネスが全知全能かのように語られることがありますが、確かに究極的なワンネスは全知全能で全てに満ちていて時間軸とは無関係に存在していると言えるものの、この宇宙はというと限りなくワンネスに近いとはいえワンネスそのものではなく、宇宙がワンネスであるかのように表現されるのは人間の一人の認知から宇宙を見た場合にざっくばらんに言う比喩としては正しい、ということなわけです。ですから、宇宙にはスピリチュアルで言われているワンネス的な側面もあるものの、宇宙には最初は知らないことがあり、知りたいという欲求によって宇宙は始まった、ということになります。とは言いましても、ざっくりと宇宙のことをワンネスと言ってしまっても構わないお話であるように思えます。人間の認知と時間軸が違うためにそのように言わざるを得ない面があるのであり、宇宙としてのワンネスそれ自身は「知りたい」という「知識」「理解」への欲求があるため、必ずしも全知全能ではない、と言ってしまうとこれまた語弊があるのですが、宇宙としてのワンネスそれ自身も成長していて、既に知っている全ての他にまた新たな知識が存在していたりするのです。宇宙は一応はワンネスですが究極的な全体としてのワンネスではないので学ぶことがあるのです。今でこそかなりの知見を手にしていて人間からすれば完全かのように見えたりもするもののかつてはあまりわからない状態だったのであり、今も文字通りの完全ではなく、その理解の活動は永遠に続いていくのです。宇宙は時空を超えていますので厳密に時間軸的な永遠というわけではないですが、宇宙全体としての進化としての時間軸のようなものが人間の認知する時間軸の外側に存在していて、それを高次元ということもできますけど、そのように宇宙全体が理解を求めて永遠とも思える時をかけて活動しているのです。それは神秘です。

・・・この物語、それ自体は昔から言われているとはいえ、その解釈には多様なものがあったように思います。

元々の目的が「理解」であるが故に、世界の法則は常に最終的にはその「理解」の方向へと向かってゆきます。そのために環境としての地球があるわけですから、それがあって始めて理解が進む、という面があるわけです。ですから、基本的には地球を破壊してしまうような行為は許されないわけです。基本的に宇宙には非干渉の法則があって惑星の自由が保障されていてその星の住民は自分たちの惑星のことを自由にできるとはいえ、惑星の住民が惑星を破壊してしまうような状況になりそうであれば宇宙からの干渉も許されているわけです。

そのように、最後の最後まで見守って、自分たちが学ぶようにさせる、という懐の深さが宇宙にはあるわけです。地球の人類が戦争や環境破壊など愚かなことをしていても、基本的には宇宙の人は見ているだけです。助けてしまっては「理解」ができなくなるからです。自分たちが行ったことについて、他人(この場合は宇宙人)から命令されて従順になって盲目的に従うのではなく、自分たちがしっかりと見て聞いて理解する、ということが重要なわけです。

今の世の中は割と「他人に迷惑をかけてはいけない」という原則に基づいてルールや法が定められていますが、本来は、この「理解」という基本法則に従って法というものも定められるべきであるように思うのです。

紛争では、「他人に迷惑をかけている」とお互いに主張して争いが続くことがよくあります。個人的なものはもちろん、国同士や民族などの紛争も、自分に対する迷惑をかけた他者に対しては反撃する権利を有するという理屈をお互いに主張するが故に永遠と争いが続くわけです。

そんな紛争も、この基本的な「理解」の原則に沿って考えれば物事は解決すると思うのです。

感情で真実が見えなくなっていると理解が進まないというのも当然ですから怒りや憎しみがあれば理解に到達せずに争いが続くわけですが、争っていても、最後は「理解」があれば争いは終わります。

割と、単純なお話である筈なのですが、この世界は「他人に迷惑をかけてはいけない」という論理が割と根底にあり、それは世間一般の政治家や支配者のみならず、実は、ライトワーカーを自称する人たちも形而上学(メタフィジックス)とか何とか古い理屈を持ち出してこの論理を強化し、他者に対する攻撃を「暴力ではなく、他者に対する力の行使は正義の行為」とお互いに主張して世界の争いを精神面で正当化しているのです。それがこの世界の現状であるように思われます。

日本のように、「お互いに理解しましょう」というように世界は考えていないのです。

「理解」を基準にすれば物事は割と簡単である筈なのに世間では複雑な理屈が成り立っていて、複雑に考えることでエゴを強化するというループにもなっています。たとえば「他人に迷惑をかけない」みたいなお話が究極的な指針であるかのように語られることがありますがそれは究極ではなくて理解のための環境を作るための前提条件のお話でしかないのに、そのような前提条件である理をあたかも究極的な指針であるかのように思い違いをすると何やら不思議な理論を組み立ててしまうと思うのです。そして、その複雑な理屈を理解している自分たちは優れているし自らの暴力は力の行使であるから正当化される、みたいな、エゴによる正当化が行われてしまうわけです。

例えば、そのように「理解」のお話を抜きにすると「他人に迷惑をかけてはいけない。」という二元論的解釈が絶対的なものだと思ってしまい、結果、「他者に危害を加えてはいけない。であるから、戦いは見ているだけではなく止めなくてはならない。自分に危害を加える人がいたら相手は悪である。危害を加えるということは悪いことであるから、悪い人に反撃しても構わない。反撃することは暴力ではなく力の行使であり正義の行為である。」というような、一見するとそれっぽく聞こえて正しいように見えて軸の曖昧なお話を本気で信じてしまったりするのです。このような理屈で今、世界の各地で紛争が起こっているのです。自分は正しくて正義であり相手は悪であるという二元論が普通の社会の根底にあるわけですが、一般社会だけではなく自称ライトワーカーにおいても、たとえ本人たちが世界を救うと称していたとしても、実際は同じ土俵で働いているわけです。自称ライトワーカーの活動は時にそれは誰から言われたでもない自発的な活動であったりして自分では世界に貢献していると思っているのかもしれませんが、そのような貢献の気持ちは二元論の上のものでしかなくて、二元論の相対的な善悪の片方でしかなく、敵味方どちらの側も自分が正義と思って活動しているのであり、このような二元論では世界に平和は訪れないわけです。

これは「理解」を軸にするとかなり違った解釈になり、「他人に迷惑をかけてはいけないのは、その人の精神を混乱させて理解を妨げることになるからである。他者に危害を加えてはいけないのは、他者とはそもそも自分の分身として存在しているのであり、自分を外側から見るために分かれているわけなので、分かれた他者がいなくなってしまっては理解ができないことになる。よって、他者を傷つけたり消そうとしたりしてはいけない。戦いをしている人がいたら、それによって人々が何を学んでいるのかを見る必要がある。必ずしもすぐに戦いを止めさせることが最上とは限らないが多くの場合で争いは理解を阻害するので戦いは即座に止めた方が良い。自分に危害を加える人がいても悪と即断せずに、理解が足りないのだと考える。相手の理解を進めるために、まず戦いを止めさせる。そして、理解させる。理解こそが正義の行為である。悪とは無理解である。」というように考えることができます。実際には世の中には知的能力および認知能力の違いがあり、どうしても理解できない人というのがいます。例えば当人の歪んだ認知により他人を見ているような場合は他の人には理解が難しかったりします。はたまた、知的指数が違いすぎると自分より遙かに頭の良い人が何を言っているのか分からない場合もあるでしょう。ですから、そもそも、理解し合える、ということは完全にはあり得ないことも「理解」を軸としている人は理解していて、それは相対的なことでありますから、自分がまだ「理解」していないことや、自分がまだまだ到底理解できないことが世の中には沢山あることも理解しています。

一方、上記のような二元論に落ち込んだ人々は世の中の究極的な論理を「他人に迷惑を...」みたいな理屈に定めており、それを拡張して基本論理を定めたりもしているが、そこから導き出される行動指針はというと結局「正義は正義であり悪は悪である、よって、悪は滅ぼしてもよい。むしろ滅ぼすべき」みたいなお話になって世界の紛争は正当化されるのです。それは自称ライトワーカーと言いつつもカルトあるいは宗教の領域であり、世界の紛争が宗教対立である背景には、このような二元論の理屈があるわけです。

世界の創造というのは作られたら終わりではなく、失敗したらやり直す、ということも含まれています。やり直す場合は必ずしも世間で想像するような「大災害」が伴うわけではなく、単純に時間軸がフリーズして一時停止になります。夢を見ている時に、ふと目が覚めて起きたら夢が急に終わります。それと似たようなものですが、空間というものは一応は保存されて、再開可能な状態になって凍結されるわけです。その時間軸が止まることはそれを管理している管理者が影響を及ぼせる範囲で行い、たとえば地球の管理者であれば地球の時間軸とタイムラインについてそのようなことを行います。大災害を起こすのは部分的にやり直したりする場合で、全体的によろしくなければフリーズされてしまうわけです。フリーズしたら、少し前に戻ってやり直しをしたり別のタイムラインに興味が移ったりします。

これは地球の管理者という単位で行われますから、そこに、個人の人間の意思というものは入り込まないわけです。ですが、どうしたことか、地球には「この世界の維持をしている」と主張する自称ライトワーカーがぼちぼちいて、そのような人たちは、「維持こそが正義」と言っているばかりか、「破壊は悪」と主張していたりします。そして、何故か「美」をも強調し、「維持、そして、美」を謳っているのです。それは何故かというと、破壊と創造をすると新しくなるのにそれよりも維持に拘ることで古くゾンビのようになってしまうことを「美」という表面で覆い隠す、そして、それを回りくどい理屈で覆い隠す、ということが行われているように思うのです。維持は創造の後でしか存在しえないし維持をした後には必ず破壊が来ます。ですが、そのようなライトワーカーは「維持」を最上のものとみなし、「破壊」を悪とみなすのです。そして、悪に対しては力の行使はしてもよくて、破壊の悪に対する力の行使は暴力ではない、と言って自らの乱暴な行為を正当化するのです。このような人がいるから、世界から紛争がなくならないのです。

そのような人は「維持」や「美」というものをあまり理解していないがために、それらを理解するためにそのように考えているのだろうと傍目には見えますが、どちらにせよ、ライトワーカーを自称しつつも自らの暴力を正義と称して正当化していることには違いがないのです。

これはとても傲慢な態度で、世界は「創造、維持、破壊」の3つが揃うことで美しいのであり、「維持」に特化したらバランスを崩し、世界の美しさは次第に失われていきます。そのような単純な話でもありますし、そもそも、「ワンネス」としての「維持」は、階層が違うお話です。この物理次元においては創造・維持・破壊というサイクルが行われます。一方、根本のワンネスは常に「維持」しかありません。そもそも次元というのは重なっていて、この地球上で創造に見えてもワンネスから見れば維持ですし、この地球上で維持に見えるものはワンネスにおいても維持ですし、この地球上で破壊に見えるものですらもワンネスから見たら維持なわけです。この、ワンネスとしての維持は人間が努力をするものではなく最初からそうでありずっとそうであるからこそ永遠のものとしてのワンネスであるわけです。ですが、何故か自称ライトワーカーは人間の努力によって維持がなされないといけないと称しています。それはそもそもワンネスの維持というものを理解していないということであり、無知によって誤解して活動していると思われますが、どちらにせよ、自分たちが良いことをしていると自己満悦に陥って「維持」の自称ライトワークを行っている人がそれなりにいるようなのです。

そのような人間の努力を遙かに超越したところにワンネスの維持はあるのであり、人間のワークでどうこうなるものでもないのですが、そこを、自称ライトワーカーはよく分かっていなかったりします。

そのように、「理解」の話を抜きにすると、よく分からないようなお話をそれっぽく感じてしまって信じてしまったりすることもあるように思います。それが多少は力を持って技を使える自称ライトワーカーならばその勘違い・無理解・無知による被害は甚大で、多少は影響力のある人が変な理屈を持ち出して正義を主張した結果、お互いに自分が正義で相手は悪だと言い合うことによって世界の紛争はいつまで経っても終わらないのです。

元々の世界の創造が2つに分けるというところから始まっていて、その目的が「理解」である以上、世界の全ての人が理解し合える、という状況にはなりません。もしそうなったら宇宙はその目的を果たして終了になるからです。この世界が存在しているということは理解し合えない部分が残っているということであり、それは、元々1つであったワンネスとしての意識が自分を理解するという行為として細分化して存在しているわけです。

ですから、自称ライトワーカーが何かの理屈を持ってきて「これを相手に理解させれば、このような考え方になってくれれば世界は平和になる」というのは、多少は答えに近づきつつも、究極な理解ではないわけです。

あるいは、全く異なる理解である場合もあります。例えば、上に書いたような「他人に迷惑をかけてはいけない」と言っているカルト教団の自称ライトワーカーは他にも「他人に危害を加えない」みたいな幾つかの話を並列あるいは包括関係のようにして説明しており、わかるようでいてわからないお話だったりするのですが、おそらくは、その根幹はというと「分離」なのです。「他人に迷惑をかけてはいけない。(それは、分離をしていた方が良いから)」はたまた「他人に危害を加えない。(それは、分離をしていた方が良いから)」はたまた、「悪に対して力の奉仕をしても良い。悪は滅ぼすべき。(それは、分離をしていた方が良いから)」となり、更には、どうやらそのような自称ライトワーカーは「ワンネス」の考えを卑下して「そんなことはない。この世界には善と悪とが存在する。ワンネスなど昨今のおかしな考え方」のように言ったりするのです。はたまた、ワンネスを何故か怖がります。「ワンネスの領域は善と悪とが混在しているので何でもあるので危険」のように、ワンネス領域に対して線引きをしているのです。そして、そのいずれも自称ライトワークである筈なのに何故か「分離」を基本としていて、それでも自分たちの活動は世界を維持していると主張していたりするのです。そのように、理屈をこねて自分を無理に納得させた上で、分離を分離と言わずに善と悪だとか言葉を変えてごまかしつつ分離を基本としているからこそ思想的にも行動的にも争いが絶えないわけで、そのような分離の自称ライトワーカーは、本人たちは「維持」のための平和活動をしていると謳いつつも、実際は、世界の争いを作り出している或いは争いを思想の根底で支えているとも言えるわけです。

そのような活動面だけでなく、精神面においても自称ライトワーカーは未熟とも言えます。その対比として参考になるのが、ヨーガで割と有名なお話としてワンネスに到達する前の段階で恐怖を感じる、という共通した体験談があります。残っている自我がなくなってしまうのがワンネスでありますからワンネスに到達する前にエゴが抵抗して恐怖を感じるわけです。自称ライトワーカーが色々と理屈をこねて「ワンネスは維持だけでなく全て(善=維持と悪=破壊の両方)があるので、何でも作り出せてしまうので危険。ワンネスの一つ下は善(=維持)であり正義」みたいな不思議な理屈を持ち出すのですけど、一見するとそうなのかなと思ってしまうかもしれないお話ですが実は間違っていて、実はワンネスは全てというのは善と悪の両方という意味ではなく創造・維持・破壊の全てであるというお話であるわけですけど、何故か、自称ライトワーカーは維持を善として破壊を悪として、そのような不思議なお話を持ち出すのです。それはただ単にエゴの抵抗として都合の良い理屈を作り出して何とかワンネスに到達させないようにワンネスに至る前の障壁としてエゴが作り出した幻想とも言えるわけですけど、多くのヨーガあるいは瞑想の熟練者はその恐怖に飛び込むことでワンネスに至り、いったんワンネスに至った後はエゴの抵抗は止んで平穏な境地になるのです。その、ワンネスの平穏の境地に至る前でごちゃごちゃと理屈をこねてワンネスを拒否し、「維持」のための「善」として自分たちの行動を正当化してその「維持」を阻害する他者を「悪」とみなした上で自らの暴力を「暴力ではなく、維持のための力の奉仕」と称して暴力を正当化することで、この世界の紛争の思想的根底を支えることになり、戦争や紛争は感情的にも思想的にも延々と繰り返されることになるのです。そのように、ワンネスの前の理屈で「維持」を正義としてしまうと争いが終わることがない、と言えます。一方、「理解」を基本とするならば争いは終結に向かうことができます。理解するために2つに分けたということは理解がない状態というのが前提であり、2つに分かれてお互いを理解することで元々はワンネスであった「自分」が理解を深めるためにこの世界が存在しているとすれば、戦争や紛争で争うことはやめて理解を深めてゆくことこそが必要ということになるわけで、この理解が広まれば世界が平和になるのです。

この対比を理解するために、例えばラマナ・マハルシの有名な言説はワンネスを理解する上で参考になります。「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広る純粋な意識の空間にとどまる。そして震えも消え去るのである。」(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」より)一方、エゴが残っている場合は恐怖を感じて、ワンネスを避けたり理屈をこねて卑下し、自らの内にある争いの火種たる葛藤をごまかして見るのを避け、他に対する暴力を暴力ではなく力の行使だとか屁理屈をつけて正当化するのです。その差は歴然です。ワンネスに達すると力の行使には興味がなくなる一方、ワンネスに達する以前ですと力の行使が関心事でありますから魔術など他者に対する影響力を高める手法に興味を持って色々と勉強したりするのですが、それが大いなる遠回りだと本人は気付かずに儀式でパワーが増大したことでエゴも肥大化し、厄介な悪魔的存在になるのです。

この、自称ライトワーカーの根本が実は「分離」であるというのは直感的にも世間的にも認知されていることではあると思うのですが、そのことがなんとなくわかりつつも根本のところでピンときていない、という人が多いのではないかと思えて、私自身も最近まで自称ライトワーカーはどうみても分離だと思いつつ違和感を感じつつも、その根源のところで「理解」が進んでいなかったと言えます。そして、改めて、やはり直感で感じていた「分離」というものが根幹にあるということをはっきりと理解した時、ようやく、腑に落ちた状態になったわけです。その「分離」とは何なのかを理解するために自称ライトワーカーが私の周囲に現れて、私の理解を促進する手助けになってくれていたように思うのです。

この世とは理解のために存在しているのですから、理解の分断は必ず存在して、お互いに理解し合えない状況というのも必ず存在します。これを大前提にするべきで、同じ考え方の人が集まったり国を作るというのは考え方が固定化して理解が進まない状況になるのであり、そのように、理解が進まない状況になると地球の管理者は揺さぶりをかけて安定を崩そうとします。そうして不安定になることで社会の交流が起こり、理解が進む、という流れになるのです。そうすると、自称ライトワーカーが「安定」を求めて局所的には効果があるように見えても全体としては割と無駄な努力をしたりしますが、地球の管理者の変革活動はそのような無理解の自称ライトワーカーのことは意に介さずに淡々と行われます。そのように、無理解な人こそが揺さぶられるべき対象であるからです。

そのように、お互いの理解が目的である以上、社会の仕組みもお互いが理解し合えないという前提を持ちつつも理解を目的としているとするべきで、そうなれば、自分の正義を貫いて悪を成敗するとかいう考えは廃れて、理解のために何をするべきか、という考えに辿り着き、そうしてようやく世界は平和になるわけです。その時、自称ライトワーカーも目的を消失して解散あるいは力を失うことでしょう。

確かに、その変化の課程で過渡期というものがあり、知的レベルが大きくかけ離れた人が近くに住めばトラブルになりますから、ある程度の国という枠組みは数百年単位で当分は必要のように思います。ですから、国民を守るという国家というのはしばらく存続する方がよいとは思いますが、理解というものが進むごとに地球の知的レベルが均一化され、やがては理解が進むことにより争いはなくなってゆくものと思われます。

その前のどこかの段階で、強制的に争いを止めさせる、という介入があることも予言されています。しかしながら、そうは言いましても介入はあくまでも一時的な療法に過ぎませんから、基本は、お互いの理解進むまでこの地球は分断が続き、やがては地球に平和が訪れることと思います。