先の「理解」に関連した話として、この言葉があります。私は、この言葉を世間で聞く度に「他者をコントロールする」という気持ち悪い意図を背後に感じることが多いのです。
世間一般的にはこの言葉は良い言葉のように感じられる方が多いかとは思いますが、先に書きましたように「理解」と「他者に迷惑をかけてはいけない」という2つの理屈を元に解釈するとこの言葉は2通りの読み解き方ができるかと思います。
まず、「理解」を根本原理とするならば、みんな違っているのは宇宙が2つ以上に分かれたからであり当たり前のことであり、みんな良い、の部分に関していえば元々はワンネスでありどちらも自分自身であるのですから「良い」という言葉は不適格かもしれませんが、ひとまず、そこまで間違った言葉ではないと言えます。
一方、「他者に迷惑をかけない」のニュアンスで読み解くと「みんな違っていてそれぞれ自由にすれば良い、みんな自我(エゴ)があるのでそれぞれ好きにすれば良い」というお話になり、それ故に、わざわざそんな内容を遠回しに他人に言うということは、「俺様に口だしするな」という、他者に関わらせないという、自分のやり方を強引に押しつける意図を多分にここから感じるのです。それをオブラートに隠すために「みんな違っていて みんな良い」というように心地よい言葉を雰囲気の良い芸能人に喋らせたり、時には歌で美しいメロディと共に宣伝している面もあるのです。
実のところ、歌や喧伝する人は前者の「理解」や「調和」を目的にしていたりもするのですが、それを言わせている存在が背後にいて、どのタイミングで何に対して言うかとか、世間で何が起こっている時にあえてこれを何度も繰り返して話題を変えてもみ消そうとしているのか、を読み解くと、これを言わされている芸能人などに罪はないにしても、その背後にいる人たちの気持ちの悪い意図を多分に感じることが度々あるわけです。それ故に、芸能人その人には悪いものを感じない、と言いますかそこまで考えていないことがほとんどな気がしますが、それを計画している人の意図に違和感を感じるわけです。
この言葉は、日本でこそ「理解」の文脈や「調和」で解釈されますが、外国で同じことを言っても「自分と他人は違うのだからそれぞれ好きにすればよい」という文脈で解釈されてしまうこともあるように思いますが、どうでしょうか。日本においても自称ライトワーカーが同様に「他者に迷惑をかけない」という理屈で動いており、同様のコンテキストで解釈される場合も多々あるように思います。
おそらくは世代でも違っていて、ある世代では調和や理解という文脈で理解されていたものが、違う世代では自由と独立として解釈されることが多いような、そのような微妙な言葉かと思います。このあたり、世代間でヒアリングしてみるのも興味深いかもしれません。