宇宙が創造された目的は「理解」

2024-11-30 記
トピック:スピリチュアル: 理解

多くのスピリチュアルで類似のことが説明されています。詳細は異なれど似通っている部分もあれば、そうでない部分もあります。

まず最初に、ワンネスがあったと言われています。何も分かれていない「全体」が「満ちて」いて、そこには時間もないので過去も現在も未来も存在しないが故にあらゆる時においても(そもそも時がなく)常に不変でした。

それは「意識」そのものでもありました。今も、人間の奥深い意識はこのワンネスそのものです。それは平穏な意識です。平和で、争いもありませんでした。

そして、そのワンネスの意識はワンネスである自分自身を「知りたい」と思いました。自分自身のことがよくわからなかったのです。最初は、ただまどろんでいました。そのままでは、理解が進まなかったのです。

そこで、自分を2つに分けて、お互いに見合うことにしました。外側から自分自身を見てみるのです。2つに分かれたことで最初よりは見やすくなりましたが、まだ、それでもよく分かりませんでした。そこで更に分け、具体的なものに固定化する、ということを何度も階層的に行いました。分かれて固定化するうちに、次第に物質的なものになってゆきました。

ワンネスであった時は、微細なものよりも遙かに無限に微細なものでした。物質ではないもの、それがワンネスでした。やがて粗大になり微細な物質になりました。それは流動的な物質でした。やがて流動的な物質だけでなく固定的な物質ができてきました。そして、長い時間をかけて今のような宇宙ができました。銀河や星々、惑星もできました。

そのうちの1つが我々の住む地球です。

このように、元々は「知りたい」という欲求から幾つにも分かれ、そして、今の宇宙が存在しています。

最初はただ知りたい、というだけでしたが、分かれてみると、様々な幻影(マーヤー)も生まれました。マーヤーとは、本来はないものであるのにあたかも存在するかのように感じられるものです。もともと自分自身のことをあまりわからない状態だったことに加え、分かれてしまったことで繋がりの感覚をも失い、不安や恐怖などの感情も生まれました。多くの幻影(マーヤー)が生まれました。一方、支え合ったり理解し合う愛というのものも存在していました。限定された愛です。ワンネスであった時はただただ満たされていて変わることがなく平穏な意識でした。それが、物質的になることで変化が生まれました。

スピリチュアルではワンネスが全知全能かのように語られることがありますが、確かに究極的なワンネスは全知全能で全てに満ちていて時間軸とは無関係に存在していると言えるものの、この宇宙はというと限りなくワンネスに近いとはいえワンネスそのものではなく、宇宙がワンネスであるかのように表現されるのは人間の一人の認知から宇宙を見た場合にざっくばらんに言う比喩としては正しい、ということなわけです。ですから、宇宙にはスピリチュアルで言われているワンネス的な側面もあるものの、宇宙には最初は知らないことがあり、知りたいという欲求によって宇宙は始まった、ということになります。とは言いましても、ざっくりと宇宙のことをワンネスと言ってしまっても構わないお話であるように思えます。人間の認知と時間軸が違うためにそのように言わざるを得ない面があるのであり、宇宙としてのワンネスそれ自身は「知りたい」という「知識」「理解」への欲求があるため、必ずしも全知全能ではない、と言ってしまうとこれまた語弊があるのですが、宇宙としてのワンネスそれ自身も成長していて、既に知っている全ての他にまた新たな知識が存在していたりするのです。宇宙は一応はワンネスですが究極的な全体としてのワンネスではないので学ぶことがあるのです。今でこそかなりの知見を手にしていて人間からすれば完全かのように見えたりもするもののかつてはあまりわからない状態だったのであり、今も文字通りの完全ではなく、その理解の活動は永遠に続いていくのです。宇宙は時空を超えていますので厳密に時間軸的な永遠というわけではないですが、宇宙全体としての進化としての時間軸のようなものが人間の認知する時間軸の外側に存在していて、それを高次元ということもできますけど、そのように宇宙全体が理解を求めて永遠とも思える時をかけて活動しているのです。それは神秘です。

・・・この物語、それ自体は昔から言われているとはいえ、その解釈には多様なものがあったように思います。

元々の目的が「理解」であるが故に、世界の法則は常に最終的にはその「理解」の方向へと向かってゆきます。そのために環境としての地球があるわけですから、それがあって始めて理解が進む、という面があるわけです。ですから、基本的には地球を破壊してしまうような行為は許されないわけです。基本的に宇宙には非干渉の法則があって惑星の自由が保障されていてその星の住民は自分たちの惑星のことを自由にできるとはいえ、惑星の住民が惑星を破壊してしまうような状況になりそうであれば宇宙からの干渉も許されているわけです。

そのように、最後の最後まで見守って、自分たちが学ぶようにさせる、という懐の深さが宇宙にはあるわけです。地球の人類が戦争や環境破壊など愚かなことをしていても、基本的には宇宙の人は見ているだけです。助けてしまっては「理解」ができなくなるからです。自分たちが行ったことについて、他人(この場合は宇宙人)から命令されて従順になって盲目的に従うのではなく、自分たちがしっかりと見て聞いて理解する、ということが重要なわけです。

今の世の中は割と「他人に迷惑をかけてはいけない」という原則に基づいてルールや法が定められていますが、本来は、この「理解」という基本法則に従って法というものも定められるべきであるように思うのです。

紛争では、「他人に迷惑をかけている」とお互いに主張して争いが続くことがよくあります。個人的なものはもちろん、国同士や民族などの紛争も、自分に対する迷惑をかけた他者に対しては反撃する権利を有するという理屈をお互いに主張するが故に永遠と争いが続くわけです。

そんな紛争も、この基本的な「理解」の原則に沿って考えれば物事は解決すると思うのです。

感情で真実が見えなくなっていると理解が進まないというのも当然ですから怒りや憎しみがあれば理解に到達せずに争いが続くわけですが、争っていても、最後は「理解」があれば争いは終わります。

割と、単純なお話である筈なのですが、この世界は「他人に迷惑をかけてはいけない」という論理が割と根底にあり、それは世間一般の政治家や支配者のみならず、実は、ライトワーカーを自称する人たちも形而上学(メタフィジックス)とか何とか古い理屈を持ち出してこの論理を強化し、他者に対する攻撃を「暴力ではなく、他者に対する力の行使は正義の行為」とお互いに主張して世界の争いを精神面で正当化しているのです。それがこの世界の現状であるように思われます。

日本のように、「お互いに理解しましょう」というように世界は考えていないのです。

「理解」を基準にすれば物事は割と簡単である筈なのに世間では複雑な理屈が成り立っていて、複雑に考えることでエゴを強化するというループにもなっています。たとえば「他人に迷惑をかけない」みたいなお話が究極的な指針であるかのように語られることがありますがそれは究極ではなくて理解のための環境を作るための前提条件のお話でしかないのに、そのような前提条件である理をあたかも究極的な指針であるかのように思い違いをすると何やら不思議な理論を組み立ててしまうと思うのです。そして、その複雑な理屈を理解している自分たちは優れているし自らの暴力は力の行使であるから正当化される、みたいな、エゴによる正当化が行われてしまうわけです。

例えば、そのように「理解」のお話を抜きにすると「他人に迷惑をかけてはいけない。」という二元論的解釈が絶対的なものだと思ってしまい、結果、「他者に危害を加えてはいけない。であるから、戦いは見ているだけではなく止めなくてはならない。自分に危害を加える人がいたら相手は悪である。危害を加えるということは悪いことであるから、悪い人に反撃しても構わない。反撃することは暴力ではなく力の行使であり正義の行為である。」というような、一見するとそれっぽく聞こえて正しいように見えて軸の曖昧なお話を本気で信じてしまったりするのです。このような理屈で今、世界の各地で紛争が起こっているのです。自分は正しくて正義であり相手は悪であるという二元論が普通の社会の根底にあるわけですが、一般社会だけではなく自称ライトワーカーにおいても、たとえ本人たちが世界を救うと称していたとしても、実際は同じ土俵で働いているわけです。自称ライトワーカーの活動は時にそれは誰から言われたでもない自発的な活動であったりして自分では世界に貢献していると思っているのかもしれませんが、そのような貢献の気持ちは二元論の上のものでしかなくて、二元論の相対的な善悪の片方でしかなく、敵味方どちらの側も自分が正義と思って活動しているのであり、このような二元論では世界に平和は訪れないわけです。

これは「理解」を軸にするとかなり違った解釈になり、「他人に迷惑をかけてはいけないのは、その人の精神を混乱させて理解を妨げることになるからである。他者に危害を加えてはいけないのは、他者とはそもそも自分の分身として存在しているのであり、自分を外側から見るために分かれているわけなので、分かれた他者がいなくなってしまっては理解ができないことになる。よって、他者を傷つけたり消そうとしたりしてはいけない。戦いをしている人がいたら、それによって人々が何を学んでいるのかを見る必要がある。必ずしもすぐに戦いを止めさせることが最上とは限らないが多くの場合で争いは理解を阻害するので戦いは即座に止めた方が良い。自分に危害を加える人がいても悪と即断せずに、理解が足りないのだと考える。相手の理解を進めるために、まず戦いを止めさせる。そして、理解させる。理解こそが正義の行為である。悪とは無理解である。」というように考えることができます。実際には世の中には知的能力および認知能力の違いがあり、どうしても理解できない人というのがいます。例えば当人の歪んだ認知により他人を見ているような場合は他の人には理解が難しかったりします。はたまた、知的指数が違いすぎると自分より遙かに頭の良い人が何を言っているのか分からない場合もあるでしょう。ですから、そもそも、理解し合える、ということは完全にはあり得ないことも「理解」を軸としている人は理解していて、それは相対的なことでありますから、自分がまだ「理解」していないことや、自分がまだまだ到底理解できないことが世の中には沢山あることも理解しています。

一方、上記のような二元論に落ち込んだ人々は世の中の究極的な論理を「他人に迷惑を...」みたいな理屈に定めており、それを拡張して基本論理を定めたりもしているが、そこから導き出される行動指針はというと結局「正義は正義であり悪は悪である、よって、悪は滅ぼしてもよい。むしろ滅ぼすべき」みたいなお話になって世界の紛争は正当化されるのです。それは自称ライトワーカーと言いつつもカルトあるいは宗教の領域であり、世界の紛争が宗教対立である背景には、このような二元論の理屈があるわけです。

世界の創造というのは作られたら終わりではなく、失敗したらやり直す、ということも含まれています。やり直す場合は必ずしも世間で想像するような「大災害」が伴うわけではなく、単純に時間軸がフリーズして一時停止になります。夢を見ている時に、ふと目が覚めて起きたら夢が急に終わります。それと似たようなものですが、空間というものは一応は保存されて、再開可能な状態になって凍結されるわけです。その時間軸が止まることはそれを管理している管理者が影響を及ぼせる範囲で行い、たとえば地球の管理者であれば地球の時間軸とタイムラインについてそのようなことを行います。大災害を起こすのは部分的にやり直したりする場合で、全体的によろしくなければフリーズされてしまうわけです。フリーズしたら、少し前に戻ってやり直しをしたり別のタイムラインに興味が移ったりします。

これは地球の管理者という単位で行われますから、そこに、個人の人間の意思というものは入り込まないわけです。ですが、どうしたことか、地球には「この世界の維持をしている」と主張する自称ライトワーカーがぼちぼちいて、そのような人たちは、「維持こそが正義」と言っているばかりか、「破壊は悪」と主張していたりします。そして、何故か「美」をも強調し、「維持、そして、美」を謳っているのです。それは何故かというと、破壊と創造をすると新しくなるのにそれよりも維持に拘ることで古くゾンビのようになってしまうことを「美」という表面で覆い隠す、そして、それを回りくどい理屈で覆い隠す、ということが行われているように思うのです。維持は創造の後でしか存在しえないし維持をした後には必ず破壊が来ます。ですが、そのようなライトワーカーは「維持」を最上のものとみなし、「破壊」を悪とみなすのです。そして、悪に対しては力の行使はしてもよくて、破壊の悪に対する力の行使は暴力ではない、と言って自らの乱暴な行為を正当化するのです。このような人がいるから、世界から紛争がなくならないのです。

そのような人は「維持」や「美」というものをあまり理解していないがために、それらを理解するためにそのように考えているのだろうと傍目には見えますが、どちらにせよ、ライトワーカーを自称しつつも自らの暴力を正義と称して正当化していることには違いがないのです。

これはとても傲慢な態度で、世界は「創造、維持、破壊」の3つが揃うことで美しいのであり、「維持」に特化したらバランスを崩し、世界の美しさは次第に失われていきます。そのような単純な話でもありますし、そもそも、「ワンネス」としての「維持」は、階層が違うお話です。この物理次元においては創造・維持・破壊というサイクルが行われます。一方、根本のワンネスは常に「維持」しかありません。そもそも次元というのは重なっていて、この地球上で創造に見えてもワンネスから見れば維持ですし、この地球上で維持に見えるものはワンネスにおいても維持ですし、この地球上で破壊に見えるものですらもワンネスから見たら維持なわけです。この、ワンネスとしての維持は人間が努力をするものではなく最初からそうでありずっとそうであるからこそ永遠のものとしてのワンネスであるわけです。ですが、何故か自称ライトワーカーは人間の努力によって維持がなされないといけないと称しています。それはそもそもワンネスの維持というものを理解していないということであり、無知によって誤解して活動していると思われますが、どちらにせよ、自分たちが良いことをしていると自己満悦に陥って「維持」の自称ライトワークを行っている人がそれなりにいるようなのです。

そのような人間の努力を遙かに超越したところにワンネスの維持はあるのであり、人間のワークでどうこうなるものでもないのですが、そこを、自称ライトワーカーはよく分かっていなかったりします。

そのように、「理解」の話を抜きにすると、よく分からないようなお話をそれっぽく感じてしまって信じてしまったりすることもあるように思います。それが多少は力を持って技を使える自称ライトワーカーならばその勘違い・無理解・無知による被害は甚大で、多少は影響力のある人が変な理屈を持ち出して正義を主張した結果、お互いに自分が正義で相手は悪だと言い合うことによって世界の紛争はいつまで経っても終わらないのです。

元々の世界の創造が2つに分けるというところから始まっていて、その目的が「理解」である以上、世界の全ての人が理解し合える、という状況にはなりません。もしそうなったら宇宙はその目的を果たして終了になるからです。この世界が存在しているということは理解し合えない部分が残っているということであり、それは、元々1つであったワンネスとしての意識が自分を理解するという行為として細分化して存在しているわけです。

ですから、自称ライトワーカーが何かの理屈を持ってきて「これを相手に理解させれば、このような考え方になってくれれば世界は平和になる」というのは、多少は答えに近づきつつも、究極的な理解ではないわけです。

あるいは、全く異なる理解である場合もあります。例えば、上に書いたような「他人に迷惑をかけてはいけない」と言っているカルト教団の自称ライトワーカーは他にも「他人に危害を加えない」みたいな幾つかの話を並列あるいは包括関係のようにして説明しており、わかるようでいてわからないお話だったりするのですが、おそらくは、その根幹はというと「分離」なのです。「他人に迷惑をかけてはいけない。(それは、分離をしていた方が良いから)」はたまた「他人に危害を加えない。(それは、分離をしていた方が良いから)」はたまた、「悪に対して力の奉仕をしても良い。悪は滅ぼすべき。(それは、分離をしていた方が良いから)」となり、更には、どうやらそのような自称ライトワーカーは「ワンネス」の考えを卑下して「そんなことはない。この世界には善と悪とが存在する。ワンネスなど昨今のおかしな考え方」のように言ったりするのです。はたまた、ワンネスを何故か怖がります。「ワンネスの領域は善と悪とが混在しているので何でもあるので危険」のように、ワンネス領域に対して線引きをしているのです。そして、そのいずれも自称ライトワークである筈なのに何故か「分離」を基本としていて、それでも自分たちの活動は世界を維持していると主張していたりするのです。そのように、理屈をこねて自分を無理に納得させた上で、分離を分離と言わずに善と悪だとか言葉を変えてごまかしつつ分離を基本としているからこそ思想的にも行動的にも争いが絶えないわけで、そのような分離の自称ライトワーカーは、本人たちは「維持」のための平和活動をしていると謳いつつも、実際は、世界の争いを作り出している或いは争いを思想の根底で支えているとも言えるわけです。

そのような活動面だけでなく、精神面においても自称ライトワーカーは未熟とも言えます。その対比として参考になるのが、ヨーガで割と有名なお話としてワンネスに到達する前の段階で恐怖を感じる、という共通した体験談があります。残っている自我がなくなってしまうのがワンネスでありますからワンネスに到達する前にエゴが抵抗して恐怖を感じるわけです。自称ライトワーカーが色々と理屈をこねて「ワンネスは維持だけでなく全て(善=維持と悪=破壊の両方)があるので、何でも作り出せてしまうので危険。ワンネスの一つ下は善(=維持)であり正義」みたいな不思議な理屈を持ち出すのですけど、一見するとそうなのかなと思ってしまうかもしれないお話ですが実は間違っていて、実はワンネスは全てというのは善と悪の両方という意味ではなく創造・維持・破壊の全てであるというお話であるわけですけど、何故か、自称ライトワーカーは維持を善として破壊を悪として、そのような不思議なお話を持ち出すのです。それはただ単にエゴの抵抗として都合の良い理屈を作り出して何とかワンネスに到達させないようにワンネスに至る前の障壁としてエゴが作り出した幻想とも言えるわけですけど、多くのヨーガあるいは瞑想の熟練者はその恐怖に飛び込むことでワンネスに至り、いったんワンネスに至った後はエゴの抵抗は止んで平穏な境地になるのです。その、ワンネスの平穏の境地に至る前でごちゃごちゃと理屈をこねてワンネスを拒否し、「維持」のための「善」として自分たちの行動を正当化してその「維持」を阻害する他者を「悪」とみなした上で自らの暴力を「暴力ではなく、維持のための力の奉仕」と称して暴力を正当化することで、この世界の紛争の思想的根底を支えることになり、戦争や紛争は感情的にも思想的にも延々と繰り返されることになるのです。そのように、ワンネスの前の理屈で「維持」を正義としてしまうと争いが終わることがない、と言えます。一方、「理解」を基本とするならば争いは終結に向かうことができます。理解するために2つに分けたということは理解がない状態というのが前提であり、2つに分かれてお互いを理解することで元々はワンネスであった「自分」が理解を深めるためにこの世界が存在しているとすれば、戦争や紛争で争うことはやめて理解を深めてゆくことこそが必要ということになるわけで、この理解が広まれば世界が平和になるのです。

この対比を理解するために、例えばラマナ・マハルシの有名な言説はワンネスを理解する上で参考になります。「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広る純粋な意識の空間にとどまる。そして震えも消え去るのである。」(「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」より)一方、エゴが残っている場合は恐怖を感じて、ワンネスを避けたり理屈をこねて卑下し、自らの内にある争いの火種たる葛藤をごまかして見るのを避け、他に対する暴力を暴力ではなく力の行使だとか屁理屈をつけて正当化するのです。その差は歴然です。ワンネスに達すると力の行使には興味がなくなる一方、ワンネスに達する以前ですと力の行使が関心事でありますから魔術など他者に対する影響力を高める手法に興味を持って色々と勉強したりするのですが、それが大いなる遠回りだと本人は気付かずに儀式でパワーが増大したことでエゴも肥大化し、厄介な悪魔的存在になるのです。

この、自称ライトワーカーの根本が実は「分離」であるというのは直感的にも世間的にも認知されていることではあると思うのですが、そのことがなんとなくわかりつつも根本のところでピンときていない、という人が多いのではないかと思えて、私自身も最近まで自称ライトワーカーはどうみても分離だと思いつつ違和感を感じつつも、その根源のところで「理解」が進んでいなかったと言えます。そして、改めて、やはり直感で感じていた「分離」というものが根幹にあるということをはっきりと理解した時、ようやく、腑に落ちた状態になったわけです。その「分離」とは何なのかを理解するために自称ライトワーカーが私の周囲に現れて、私の理解を促進する手助けになってくれていたように思うのです。

この世とは理解のために存在しているのですから、理解の分断は必ず存在して、お互いに理解し合えない状況というのも必ず存在します。これを大前提にするべきで、同じ考え方の人が集まったり国を作るというのは考え方が固定化して理解が進まない状況になるのであり、そのように、理解が進まない状況になると地球の管理者は揺さぶりをかけて安定を崩そうとします。そうして不安定になることで社会の交流が起こり、理解が進む、という流れになるのです。そうすると、自称ライトワーカーが「安定」を求めて局所的には効果があるように見えても全体としては割と無駄な努力をしたりしますが、地球の管理者の変革活動はそのような無理解の自称ライトワーカーのことは意に介さずに淡々と行われます。そのように、無理解な人こそが揺さぶられるべき対象であるからです。

そのように、お互いの理解が目的である以上、社会の仕組みもお互いが理解し合えないという前提を持ちつつも理解を目的としているとするべきで、そうなれば、自分の正義を貫いて悪を成敗するとかいう考えは廃れて、理解のために何をするべきか、という考えに辿り着き、そうしてようやく世界は平和になるわけです。その時、自称ライトワーカーも目的を消失して解散あるいは力を失うことでしょう。

確かに、その変化の課程で過渡期というものがあり、知的レベルが大きくかけ離れた人が近くに住めばトラブルになりますから、ある程度の国という枠組みは数百年単位で当分は必要のように思います。ですから、国民を守るという国家というのはしばらく存続する方がよいとは思いますが、理解というものが進むごとに地球の知的レベルが均一化され、やがては理解が進むことにより争いはなくなってゆくものと思われます。

その前のどこかの段階で、強制的に争いを止めさせる、という介入があることも予言されています。しかしながら、そうは言いましても介入はあくまでも一時的な療法に過ぎませんから、基本は、お互いの理解進むまでこの地球は分断が続き、やがては地球に平和が訪れることと思います。

平和や調和というのも実は中途半端な理解

そのように、宇宙が創造された目的は「理解」であるわけですから、調和というのもそのための環境作りのお話でしかないわけです。そのため、平和が大切とか調和が必要、などと訴えても根本のところで響かないのです。

実のところ、これは地球だけの問題ではなく一部の宇宙人、例えばプレアデスにおいてもその傾向が多少はあるように思われます。私のグループソウルの中にプレアデスの宇宙船で暮らした魂がかつていて今はグループソウルに帰還済なわけですが、その記憶を辿ると、プレアデスにおいては犯罪者は分離・隔離されていたように思うのです。

その詳しい基準までは覚えていないのですが、調和を乱す者、他者を傷つける者、などはどこかの惑星に幽閉状態になってその後の人生を送ることになっていたように思います。おそらくそこでは男女は接触せず、子供も作ることができない環境になっていたかと思います。犯罪者は子孫を残さないようにして、犯罪者と同質の人たちを増やさないようにする、という工夫がなされていました。

そして、かつては、もしかして今も、多くのプレアデス人の意見としては地球も同様にすべきだと考えており、地球も犯罪者を分離して子孫を残さないようにすれば良い、というような考え方が時折地球のコンタクティに伝えられているように思います。

これは、宇宙人だからといって盲目的に信じてしまうような人たちからすれば、まるで神のように思える宇宙人が言うことだからと鵜呑みにしてしまうかもしれません。ですが、私のような地球人が言っても大して説得力がないかもしれませんけど、このような考え方はプレアデスの間違った面であると言えます。

そもそもこの宇宙の根本原理は「理解」であるのに、犯罪者を分離して子孫を残さないようにしてしまったら、その根本の目的である「理解」が進まないようになってしまいます。それは宇宙の管理者からしたら由々しき事態です。

実のところプレアデス人と言っても肉体を持った宇宙人であり、肉体を持たないまでに進化・成長はしておらず、不完全な、学びの途中の存在であると言えます。と言いますか、この宇宙それ事態が学びのために2つ以上に分かれるということをしているわけですから、完全無欠の存在というのはあり得ないわけです。常に学びというものを続けるために分化しているわけです。それを、自らの判断基準で犯罪者と決めた他者を隔離することで社会を一見すると平穏な状態に保つのは、傍目には平和そうに見えても、そこに「理解」が足りていないために、どこか不平不満が溜まってしまうものなのです。

実はオリオン大戦などもこの程度の微妙で小さな不満が最初はきっかけであったように思います。他の惑星の文明に対して、「どうして貴方たちはそうなのだ。こうすればいいのに」と言った、勝手で押しつけがましいお節介から最初は始まり、その細かい違いを理解せずに「君たちは間違っている」と判断し、やがて、それが分断を作り出しました。その根幹はというと、「理解」というものがこの宇宙の基本的な行動原理およびモチベーションであるという点を(多少はわかっていつつも)疎かにしてしまっていたがために自分たちと考え方が異なる文明を否定することになったのです。それが宇宙における大戦争を引き起こしました。

その根源にあるのが、「他者に迷惑をかけてはいけない」という原理であるように思うのです。かつてオリオン大戦を引き起こし、そして、この地球でも紛争を繰り返している原理が、これであるように思うのです。この原理は様々に派生して少し違った理屈を繰り広げていたりします。とは言うものの、根本はそこまで変わらず、結局は、根本原理として「理解」が宇宙が創造された理由だったという点に思いを馳せることができないために中途半端なところで留まってしまい二元性の論理で正義と悪を作り出し、自らの力の行使を正当化し、争いが続くことになったわけです。

これは、戦いを挑んできた人に対して抵抗するなと言っているわけではありません。正当防衛というのは成り立ちます。その時の力の行使を正当化する理屈として正義とか悪とかを持ち出すことが中途半端な理解であり、争いの連鎖を生み出している、ということです。そして、正当防衛というのは理解のための環境を作り出すためのものである、という視点に立てばどの程度まで正当防衛して良いのか、ということもその状況に応じて明らかになります。

人には知的程度の違いというものがありますし、前提となる知識や理解も異なりますから必ずしもすぐに理解が現れるということはありませんけど、それでも、後ほど理解することができるための行動をあらかじめ取っておくということが必要のように思います。

ですから、正当防衛が調和のためとか平和のため、というのが中途半端な理解であるということも同様にわかります。調和や平和があったとしても理解が起こるとは限りません。調和や平和があった方が理解が現れやすいためにそうするのであって、平和が最終目的ではないわけです。人によっては平和や調和が「他人に迷惑をかけないこと(だからお互いに好き勝手にやればよい)」という状況を作り出すためのものだったりしますから、平和や調和が必ずしも理解を生み出さないことは明白です。

そのように、調和や平和そのものが最終目的としてしまうと「理解」に辿り着かず、違う目的の人にただ利用されるだけ、という結果になってしまうこともあります。もちろん平和や調和が理解を生み出すこともありますが必ずしもそうではないのが現状であり、最終的な目標が平和や調和であるとお互いに思ってはいても最終的な目標は異なる人が集まっていることに途中で気がついて最後は分裂、ということが繰り返されてきたように思うのです。

一方、最初から「理解」が目的であると定めれば調和や平和というのは途中の過程あるいは前提条件はたまた理解の結果としての成果物であるわけですから、平和や調和というのが自然な結果として表れてくるわけです。理解なき強制的な調和や平和は分裂と不和を生み出して新たな争いを生み出す一方で、理解を目標にすればそのような分断や争いは次第になくなるのです。

これは片方だけ行っても駄目で、両者がお互いに理解しようとして初めて平和や調和は達成されるわけです。

それは一見すると大した違いではないと思われるかもしれません。しかし、この点が実は重要で、些細なすれ違いにより宇宙の戦争も引き起こされてきており、地球の戦争や紛争も些細な似たような事で発生してるのです。



「みんな違っていて みんな良い」に感じる違和感

先の「理解」に関連した話として、この言葉があります。私は、この言葉を世間で聞く度に「他者をコントロールする」という気持ち悪い意図を背後に感じることが多いのです。

世間一般的にはこの言葉は良い言葉のように感じられる方が多いかとは思いますが、先に書きましたように「理解」と「他者に迷惑をかけてはいけない」という2つの理屈を元に解釈するとこの言葉は2通りの読み解き方ができるかと思います。

まず、「理解」を根本原理とするならば、みんな違っているのは宇宙が2つ以上に分かれたからであり当たり前のことであり、みんな良い、の部分に関していえば元々はワンネスでありどちらも自分自身であるのですから「良い」という言葉は不適格かもしれませんが、ひとまず、そこまで間違った言葉ではないと言えます。

一方、「他者に迷惑をかけない」のニュアンスで読み解くと「みんな違っていてそれぞれ自由にすれば良い、みんな自我(エゴ)があるのでそれぞれ好きにすれば良い」というお話になり、それ故に、わざわざそんな内容を遠回しに他人に言うということは、「俺様に口だしするな」という、他者に関わらせないという、自分のやり方を強引に押しつける意図を多分にここから感じるのです。それをオブラートに隠すために「みんな違っていて みんな良い」というように心地よい言葉を雰囲気の良い芸能人に喋らせたり、時には歌で美しいメロディと共に宣伝している面もあるのです。

実のところ、歌や喧伝する人は前者の「理解」や「調和」を目的にしていたりもするのですが、それを言わせている存在が背後にいて、どのタイミングで何に対して言うかとか、世間で何が起こっている時にあえてこれを何度も繰り返して話題を変えてもみ消そうとしているのか、を読み解くと、これを言わされている芸能人などに罪はないにしても、その背後にいる人たちの気持ちの悪い意図を多分に感じることが度々あるわけです。それ故に、芸能人その人には悪いものを感じない、と言いますかそこまで考えていないことがほとんどな気がしますが、それを計画している人の意図に違和感を感じるわけです。

この言葉は、日本でこそ「理解」の文脈や「調和」で解釈されますが、外国で同じことを言っても「自分と他人は違うのだからそれぞれ好きにすればよい」という文脈で解釈されてしまうこともあるように思いますが、どうでしょうか。日本においても自称ライトワーカーが同様に「他者に迷惑をかけない」という理屈で動いており、同様のコンテキストで解釈される場合も多々あるように思います。

おそらくは世代でも違っていて、ある世代では調和や理解という文脈で理解されていたものが、違う世代では自由と独立として解釈されることが多いような、そのような微妙な言葉かと思います。このあたり、世代間でヒアリングしてみるのも興味深いかもしれません。



物理的な制限のある世界に住むことで学びを加速させる

「理解」という前提に立つと、この地球の物理的な世界は高次元の世界よりも学びがしやすい世界であると言えます。スピリチュアルというと高次元になって自由になってしかるべしという暗黙あるいは当然の合意があって、それにそぐわないものはスピリチュアルではないかのような風潮すらあります。しかしながら、実は高次元というのは自由すぎるあまり全てがすぐに思いのまま現実化されてしまいますので、そのことが何なのか、なかなか理解できずに不調和も調和も全て実現されてしまう世界なわけです。

一般的にはあの世はいくつも階層が分かれていて地獄と天国があって・・・ みたいなお話がありますけど、それはある意味、比喩であり、地獄の中にも低次元と高次元があって、天国にも低次元と高次元があるわけです。ですから、低次元だからとって必ず地獄なわけでもなく、天国だからと言っても高次元であるとは限らないわけです。

とは言いましても高次元の制限のない世界のことを学ぶのは重要で、我々は皆、そこから来たわけですから、どこから来てどこへ戻るのかを知ることは必要なわけです。一方、ここに来ている意味というのは、元々無自覚のまま意識を働かせて現実化させてしまった現実を重い粗大な物質界というところでゆっくり現実化させて体験することにより、その自らの意識とは一体何なのかをしっかり理解できるようになるのです。これが地上で学びが加速される意味です。

スピリチュアルで、もう学び終えた場合にもまだこの物理世界にいなくてはならなくて煩わしい、というのは現実問題としてありますけど、本来はそのように、もう学び終えたので卒業する、というお話であり、この物理次元がなくなって高次元だけになってしまうとまだ学び終えていない人が学ぶ場を失ってしまうことにもなり、不満も出てきてしまうかもしれません。学びというと何ですけど物事を理解するということは楽しいことであり、それは、言い換えれば遊びであるとも言えます。遊んで理解して楽しむ、ということがこの制限のある物理的な世界に住む意味で、そうして(遊びながら)某かを理解し続けている限りは宇宙を創造した主の意図に沿った行動をしているといえます。

特にお金は人の行動の制約にもなりますが、行動に制約がなくなったら仕事をしなくなって寝そべっているだけであるとすれば学びも減るのであり、それは本当に面白い生活なのでしょうか。それでいいと思う人がいたら宇宙の創造主の意図にそぐわない存在として某かの揺さぶりがかけられ、行動するように働きかけられます。行動せざるを得ない状況に追い込まれます。人は勝手な判断で束縛だとか強制だとか思い思いに言いますけど、根本原理が「理解」でありますから、遊びでも何でも「理解」のために生きている人は楽しいことであっても生活は保障されるわけです。何故ならそれが宇宙の意思に沿っているからです。

ですから、スピリチュアルで術を使ってお金を楽にかせぐとか引き寄せの法則で思い通りの人生を生きるとか、そんなことは宇宙の法則からしたら大して興味のないことで、それは術を使ってもしかして実現できるかもしれませんが、その結果、学びもなく平穏に暮らすだけであれば宇宙は揺さぶりをかけて強制的にそこから放り出し、行動せざるを得ない状況に追い込むわけです。そのように、本当は宇宙の法則が「学び」だからこそ行動させられているのにも関わらずそれを認識せず、やれ支配者だとかディープステートだとか陰謀論だとかよくわからない勝手な理屈を想像で生み出し、あるのかないのかわからない実態に対して不平不満を感じて世の中を呪うという時間の無駄かつ意味のない行為を行っている人も中にはいるわけです。

お金があるのは、実は別のタイムラインでお金がほとんどいらない世界が一旦はできたのですがその世界では人々が「かんしゃく」を起こすようになってしまい、義務で労働を続けたものの、何か、おかしな感じになってしまったために、このタイムラインではお金の力が強いように誘導されたわけです。今の日本でも田舎の方に行くと変な地主や土地の有力者が威張って迷惑な存在になっていることがありますが、お金のない世界はそれが何倍にも何十倍にも拡大された世界で、一旦はその土地の有力者になってしまうとその地位が代々引き継がれ、迷惑な人がその家に生まれた場合にはその周囲の人を多いに悩ませるという状況になっていたのです。それは今の田舎の人の比ではなく、逆らったら食事もきちんと取れなくなるかもしれない、というレベルなわけです。今の社会はお金さえあれば誰に対しても食事を提供してくれますが、お金がなくなると誰かの好意で食堂など全てのお店が運営されることになり、そのお店の主人にぺこぺこしてお礼を深々とすることが常になってしまうのです。いい人ならばともかく、性格がおかしい人も中にはいて、今の世の中であればそのような変な人は稼げなくなってお店も畳むことになるので世間に変な人は少ないですけど、お金がほとんどいらない社会では倒産がほとんどありませんので、変なひともずっとマーケットに居続けるわけです。それは新陳代謝の少ない、歪んだ世界です。そのように、制限がない世界が必ずしも良いわけではなく、お金という強力な制限があるからこそ人は学ぶことができるわけです。



他人を操ったり強制することは理解を妨げる

宇宙の根本の行動原理が「理解」だとして、それを妨げるものは疎んじられます。

誰か他人に対して制限を加えることは理解を妨げることになるため良くないことであると基本的には考えられます。基本的に、というのは、状況によっては他人を制限した方が理解が進む場合があるからです。例えば、どうしようもなく乱暴で暴力的で聞く耳を持たない人がいる場合は警察などが介入して行動を制限することは必要に思います。そのような犯罪の場合を除けば、通常の生活においては他人を操ることはその人の自由な思考と行動を妨げることになるため、それは基本的な宇宙の動機である「理解」を妨げることになっているわけです。

それと混同されてしまうかもしれないですが物理的な社会に住んでいること自体で(物理という)制限があることそれ自体は学びの役に立つわけですが、その一方で、他者を強制することは学びの妨げになるわけです。

これは、世間一般で言われているような「基本的人権の1つである自由」とはまた違った文脈で理解するべきお話で、確かにざっくばらんに言えば基本的人権の自由は正しくもあるのですが、その前提条件として「理解」なのか「他人に迷惑をかけてはいけない」のどちらに重きを置くのかで根本的原理が異なってきて、例えば「理解」に根本原理を置くのであれば基本的人権の「自由」とは理解を促進させるためのものということになりますが、一方、「他人に迷惑をかけてはいけない」という文脈における「自由」であれば、それは、他者と関わりを持たずに自分は好きにやるので相手も好きにやれば良いという分離の状態を許容することになりそのことで理解が進まないことになるわけです。

これは必ずしも一緒にいた方がいいというわけでもなく、分かれて暮らした方がいいわけでもなく、時と場合によるわけで、一緒にいた方が学びが進むのであれば一緒にいるべきだし、分かれて暮らすことで理解が進む場合もあれば、それぞれ違った興味を持って理解を深めたい場合は分かれて暮らした方が良いわけです。

特に、知的指数が異なる集団同士が近くに居住しますと生活習慣の違いによりトラブルが起きて、考え方が違いすぎるがためにお互いに理解できない状況も招きますので、基本的は同じくらいの知的指数の集団がまとまって暮らすのが良いように思われます。理解という点で言えば離れていても少しづつわかり合えますが、生活習慣となると日々のお話ですので、理解はできても近くに暮らすのはきつい、という時もあるわけです。

平等、という点に関しても、もし「他人に迷惑をかけてはいけない」を歪んで解釈して「皆が完全に同一であれば他人に迷惑はかからない」という共産国家のような考えになってしまうことがあり、人はもちろん抵抗しますけどそれを強権国家が強制することにより同一の暮らしをさせられ、毎日同じような暮らしをすることで人々から考える力および生きる力が失われ、「理解」が進まない状況に落ち込むわけです。全員を平等に強制してしまうことは人々の行動を妨げ、結果、「理解」を阻害するわけです。各個人がしたいことができなくなり、自由がなくなり、理解が進まない、理解が妨げられる状態になり得るわけです。

とは言いましても、「理解」の根本原理以外は状況によって変わりますのでこれは一例にすぎなくて状況次第であるわけですが、概してそういうことだと思われます。



「とある理解」そのものが真理なわけではない

スピリチュアルで時々語られる、「理解」こそが真理あるいは自由になる鍵だというお話も、「理解」という言葉が出た時点で核心に迫っているものの、必ずしも真理そのものというわけでもないわけです。

実のところ、真理の理屈を知っていてもこの世界の幻想(マーヤー)に囚われていて真実が見えていないような人は山ほどいます。「・・・によって、真実を知っている」と謳う人は、例えば大学で宗教学を学んだ人ですとか、どこかの流派で理屈を学んで理解しようとも、その理解そのものが真実というわけでもないのです。宗教学を学んだ人は他の流派を揶揄するために「そんなことをせずとも、・・・で理解できる」みたいなマウンティングを取る場面をたまに見るのですが、そのように、大学のようなところで知識を入れて理解したとしても真実がわかっていない場合が多々あるわけです。

こういうことを言うと、すぐに答えを知りたい人が「じゃあ、答えは一体何なのだ」と(時に少し苛ついて)聞くことがあります。そのように、「何か」に答えがあると思っている時点で目的をはき違えているのです。答えとは「何か」そのものではなく、何かを探し求める姿勢の方で、理解を求める姿勢とも言ってもよく、確かに姿勢そのものだけでは答えではないものの、無限とも思える答えを深掘りすることこそが「理解」ということなわけです。ですが、人は往々にして何かを聞いて理解しただけで「私は真理を知っている」と思いがちです。

割と有名なヨーガあるいはヒンドゥのお話で、神々と悪魔が共に聖者からこの世の真理を聞いた、という場面が出てきます。その時、悪魔の方はというと聖者の言葉をそのまま理解して、「そうか。俺は真我なのか。俺は理解している。これが真実だ」と思い、慢心し、真実には至りませんでした。神の方はというと、「これが真実なのか。これはすぐに理解できる。・・・しかし、本当に自分は理解しているのだろうか。これが真実なのだろうか。」と内省し、更に探求を続け、本当の真実を見出しました。探求を続ける者のみが本当の解放と真理を手に入れるのです。

これは、世間でもよくあるお話です。

話を聞いて「そうか。理解した」とすぐ思い込んでしまう人はそこで終わってしまい、本当の理解というものに辿り着きません。一方、「理解した気がするが、本当のところには、まだ達していない気がする」というように自らの状況を見極めて修行あるいは探求を続けると真実に到達するわけです。

特にスピリチュアルに関しては顕著で、理解はすぐにできても本当にその状態になるには何年もかかるのが常です。そのように時間のかかることに嫌気をさして術だとかイニシエーションだとか手っ取り早い方法に何十万あるいはそれ以上を払い、大して効果の出ない状況でお金だけがなくなる、という悪手を打つ人がそれなりにいるわけです。スピリチュアルは時間がかかるのに、手っ取り早く成長できるというマーケティング戦略を信じてしまうような脇の甘い人がそれなりにいるわけで、それがスピリチュアルの表現を落としています。

「理解するだけで成長できる」「儀式を受けるだけでオーラが何倍にもなる」みたいな宣伝文句はスピリチュアル初心者ホイホイみたいなもので、そういうところで痛い目を見てスピリチュアル大嫌いになるか、あるいはお金がなくなるまで続けるか、大体が2択で、一部は自分が講師になって続けたりしますけど、大抵は効果がないのにあると信じ込んでいるプラシーボ効果である場合が多いわけです。

効果を出せる人も中にはいますけど、それは儀式を学んだおかげというよりは最初からの素養であることがほとんどのように思えますから、そこらのスピリチュアルスクールで学んだとしても時間がかかるものと思った方が良いわけです。ましてや、「理解すればそれで良い」というお話は、ものによっては確かにそういうコンテキストで真実も語られますけど、一般的にその話を聞いて易々とその通りにはならないわけです。

実際は、真理というものはとある段階に達成したとしてもまだ先の深いものがあり、それは人間の一生という短い時において究極に達することはあり得ません。ですから、一生探求し続けるつもりでいるくらいがちょうど良いのではないかと思います。



衣食住に不自由ない平穏な生活に新たな「理解」があるのか

それが前提条件であり(某かの対象への興味があって)理解が促進されるのであればそれは肯定的に捉えられます。一方、それがただ単に堕落的な生活を送るだけであり新たな理解というものがそれほど生まれないのだとしたら否定的に捉えられます。

その判断基準はというと、宇宙が生まれた根本の理由が「理解」のためであるならばそれに即して考えると状況が好ましいのか改善した方が良いのかがわかるわけです。ですからその評価は状況によって変わるのであり、衣食住に不自由ないかどうかが必ずしも好ましいわけでもないのです。

肯定的、というのは、宇宙の根本原理に沿っているということであり、その継続は宇宙が後押しします。某かの興味があって行動している人は衣食住は前提条件として保障されます。一方、何もしたくないが衣食住に苦労したくない怠け者は宇宙の根本原理である「理解」に反しているのでそのような(宇宙にとって)意味がそれほどない状況は大いなる力によって揺さぶられて継続不可能になります。そして、某かを理解しないといけないような状況に放り込まれます。

よって、お金を稼いで衣食住に苦労せずにただ暮らしたいだけの人はその状況は長く続かないわけです。そのような不自由ない生活そのものが生きる目的であればしばらくすれば退屈になったり、たとえそれを達成したところで某かの不平不満が出てくるものです。本当の幸せというのは探求の中にあるわけですが、探求をせず平穏に暮らしたとて新たな理解を生み出さないのであれば宇宙はその人のことを有用とはみなさず、揺さぶりがかけられるわけです。

よって、スピリチュアルで引き寄せの法則だとか幸せを手に入れるセミナーだとか、そのようなものをやったところであまり宇宙的には関係がないとも言えて、現実を生み出す一時的な効果というのはプラシーボでしかないかもしれませんし時には本当に効果があるものもあるかもしれませんが、その生活がただ平穏なだけで新たな理解を生み出さないのだとしたら宇宙の原則から反していますので揺さぶりがかけられて変化が強要されるわけです。時に元に戻ってしまうことも大いにあるわけです。

実のところ、この世界そのものが揺さぶりをかけられてそのタイムラインが終了、ということが度々起こってきました。太平洋沿岸で日本を中心として広がった共栄圏のあるタイムラインでは衣食住が保障されていましたが活力というものが社会から失われ、新たな理解というものが生まれにくくなり、当時は共栄圏の人々から「悪魔のようなヨーロッパ」と比喩されていた白人社会を遠目で見つつも理解しようとせず、地球の管理者からすると「理解もせず、遠目で見つつも、飛び込んで改善しようともしない、この状況は好ましくない」ということでそのタイムラインは凍結状態になったのです。地球の管理者が答えを教えてくれたのですが「共栄圏の平和な状況で(奴隷を手引きして共栄圏に導くなどして)人々を(少しだけ)助ける、というのは不十分である。ヨーロッパの国々に飛び込んで、辛い状況であったとしても理解をして、奴隷を未だに使っている社会を変えてゆくこと。それがあのタイムラインで必要だった」と言っています。よって、その教訓を学んで今のタイムラインに生かすのであれば、戦争や紛争あるいは奴隷に近い扱いをしている人たちを遠目で見て批判するのではなく、飛び込んで変えていくことが求められるわけで、それはお互いに理解を進めるということが根底にあるわけです。変えることそれ自体が目的ではなくて、理解を進めるというのが根本原理であり、理解こそが最終目的であるとすれば、理解のために変えるということも言えますし、理解があれば変わる、ということも言えるわけです。その理解を促進させずにただ周囲から見て批判しているだけ(或いは少し助けて自己満足しているだけ)の社会は地球の管理者にリセットされてしまう可能性があるわけです。それは今の社会(タイムライン)においても同様です。

この種の、酷いことをしている人がいたら見て見ぬふりをしてはいけない、という文脈も宇宙の基本法則によって解釈できます。酷いことをしている人は、理解が足りないのです。又、それを見ている人の側にも酷いことをしている人への理解が足りないのです。正義と悪の文脈で道徳的にこのことが語られることがありますが、決まって「悪は成敗すべき」みたいなお話になるように思いますが、そういうことではないのです。成敗してしまったら理解が進まず、それは、宇宙の法則に反していますので同じような悪がまたどこかで出現してしまいます。理解するまではそれは現れますので、理解せずに成敗したところでそれはイタチごっこになってしまうのです。

特にスピリチュアルという面でいうと自称ライトワーカーがこの種の善と悪のお話を持ち出してきて、悪に対しては見て見ぬふりをせずに成敗しなくてはならない、みたいなお話をしますけど、それは宇宙の法則に反しているのです。そういうことをすれば、理解をしようとしない人ということで自称ライトワーカーの元に強大な悪(と自称ライトワーカーが思うもの)がやってきて、逆に淘汰されてしまうこともあります。この宇宙の法則は「理解」でありますから、理解しようとせずにただ単に善と悪みたいな表面的なお話で「維持が正義、破壊が悪」みたいな単純な論理で悪を成敗しようとしている人は、必ず宇宙の法則でしっぺ返しが来ます。当人はそれは悪と戦っていると自己満足するかもしれませんが、そのような無駄な努力とも言える戦いを繰り広げている人がいるわけで、そんなことをせずとも理解さえすれば解決するのです。とは言いましてもその理解には時間がかかりますからある程度の自己防衛というのは必要で、そのための力は必要です。自称ライトワーカーのように自分の暴力を力の行使だとか何とか理屈をこねて自己正当化するのではなく、理解ができる場を作るために力を行使することこそが本当は必要なのでありますが、自称ライトワーカーは「悪がいたから成敗しても良くて力の行使は正当化される何故ならそれは暴力ではないから」みたいな勝手な論理で自分が悪とみなした相手に暴力を振るって世界の紛争を長引かせているのです。

衣食住に不自由ない平穏な暮らしをする時、多くの不都合を見て見ぬふりをする人がいて、その時、その見て見ぬふりは、どのような意味があるのか、という解釈が異なるわけです。自称ライトワーカーは善と悪の戦いをして悪を成敗しなくてはならないと思い(勘違いし)成敗さえすれば良くて理解は二の次なわけです。一方、宇宙の法則はというと理解を深める方向へと状況を追いやるのです。

共栄圏のタイムラインにおいても、「悪魔のようなヨーロッパ、奴隷を使い捨てにしているヨーロッパ、強欲なヨーロッパ」という評価が太平洋沿岸の共栄圏の人々によってなされていました。そして、それを放置していたのです。今時の自称ライトワーカーの判断基準で言えば悪のヨーロッパは成敗すべき、ということになるでしょうが、宇宙の法則は「理解するために、地獄のようなヨーロッパの内部へと入り込みなさい。そこに転生して、内部から理解しなさい」と言います。そして、それをせずに遠くの共栄圏から少しの人々を助けるくらいで遠くから「ヨーロッパは酷いねえ」と陰口を叩いていた結果、そのように、理解しようとしない社会は不要、ということでそのタイムラインはリセットされたのです。それが地球の管理者の意図です。

答えは明らかで、戦争であろうと何であろうと理解が進むのであれば地球の管理者は肯定します。何故ならそれが宇宙の法則だからです。一方、理解が進まない状況であれば否定して揺さぶりあるいはタイムラインのリセットが起こります。

それに即して考えれば、例えば中東の紛争は理解が進まない状況なので地球の管理者は否定的に捉えています。又、AIも人間の理解が阻害されるのであれば(例え素晴らしい成果を出そうとも)否定的に捉えているようです。人間の理解というのは宇宙の意識の一部であり、AIというのは機械でそこに意識はありませんのでいくら成果が出ようとも宇宙の「理解」に貢献していないのです。とは言うものの、AIを使って人間が更なる理解を得る、というのは肯定的ですのでAIが必ずしも悪いわけではありません。トータルにみて全体として理解が進むかどうかが焦点なわけです。

紛争においても、トータルにおいて理解が進む結果を肯定的に捉えます。基本的には紛争は否定的ですが力の行使が必ずしも悪いわけではなく紛争を止めさせて理解を促進させるような力の使い方は肯定されます。それは善と悪みたいな表面的な薄い理屈とは無関係で、そもそもワンネスで全ては「わたし」の一部でありますから、善とか悪とか、ほとんど関係がないのです。善と悪があるとすれば、理解を促進させるものが善で、理解を阻害するものが悪、という言い方は比喩としてできるかと思いますが、自称ライトワーカーの善悪の定義のように「維持が善で、破壊か悪」みたいなお話ではないのです。

紛争は、ある意味、衣食住に不自由ない暮らしをするために自分たちのことは気にするが他者に無理解であるが故に紛争が起こっている、という言い方もできます。それは一般的には当然のことであるかのように聞こえるかもしれませんが、その本質はというと宇宙の法則が「理解」を目的としていると考えれば、理解の反対の無理解というものが紛争を引き起こしているとも言えるわけです。理解ということを抜きにしても一般的にそれはそうだと思える話だとしても、宇宙の基本法則が「理解」だということを踏まえるとこのことがより一掃、深く理解できると思うわけです。



エネルギーワークによる変容が「理解」を妨げることがある

自称ライトワーカーがヒーリングと称して変容を推奨しています。これはいわゆるエネルギーワークで、外からエネルギーを与えることで強制的な変容をもたらすものです。とは言いましても本当にできるわけでもなくプラシーボであったり結局は自己比喩力が動いているだけだったりしますが、ここでは、理屈の上でそう言っているとでも理解しておいてください。

そのように、本当にできるかどうかはさておき、変容をもたらすワークがあるとします。それが変容をもたらすと仮定して、その変容に「理解」が伴わないのであれば宇宙の法則に反しています。やっている当人は「エネルギーワークの方が変化が早い」みたいなことを言っていたりするようですが、問題の本質はそこではないのです。当人の置かれている立場が辛いものであったとして、その状況に対する理解が進まないのであればエネルギーを変容してその状態から脱したとて、その行為は宇宙の法則に反しており、反作用が必ず訪れます。すぐに元に戻ったり、もっと大きな力で同じ状況に追い込まれるわけです。

そんな無駄な努力のようなことをせずとも、基本的にはほおっておけば理解が進んで解決するのです。それを、わざわざ恩着せがましくエネルギーワークなどと称して一見すると解決したかのように見せて高いお金を取るというスピリチュアル・ビジネスが世間で行われているのです。

せっかく理解が進むような状況に追い込んだ、とも言えて、その状況を作り出した存在たちからすると舞台を用意して役者を配置して、さて理解が進むぞという時に自称ライトワーカーと称する人たちがヒーリングと称してその舞台を台無しにするのです。ヒーリングを受けた当人は満足かもしれませんが、実際は、そこまで必要なことでもないわけです。

ヒーリングは基本的に当人の自己治癒力を活性化させるトリガーとして動作します。そして、エネルギーが入ることにより生命力が活性化します。それはヒーリングと言わなくても人と人とが接する時に起こることでもあり、特別にヒーリングと称する必要もなく、近くにいるだけで起こることでもあります。

自己治癒力を活性化させるという意味においてはヒーリングは効果があるとしても、エネルギーを触るわけですからやり方には注意が必要で、当人の問題を単純に取り去ってしまうような種類のエネルギーワークは理解を阻害し、一見するとエネルギッシュに一旦はなるが盲目的な均一化した人を作り出し奴隷のようなメンタリティの人が増産される危険性があるわけです。

このような状況に対して、奴隷のマインドが確固になったことを見届けた自称ライトワーカーや自称ヒーラーは、自分の行為が当人の理解を妨げているのにも関わらずそれを棚に上げてか或いは状況に気付かず「ヒーリングだけしてもまた元の奴隷生活に戻るだけで、無力感を感じる」みたいなことを言い、更には「(ヒーリングだけではなく)理論を教えることが必要」みたいなことをことしやかに言うのですけど、その理論とは均一化されたカルトの教義であったりして、一般的な広範囲の普遍的な知識や理解ではないのです。その理論とは往々にして「善と悪」のお話だったり「善が悪を成敗する」みたいな不思議な昔のギリシャかどこかの理屈あるいはエジプトからの流れの哲学だったりして、それはそれで興味はそそられるものの、均一化された同じ知識を教え込む、というのは宇宙の法則から言ってそれほど意義のあることではないのです。

宇宙の法則の「理解」というのは、新たな知識や理解を得るために探求する、というものです。その知識の一部としてカルトの面白い不思議な理屈も時には興味をそそることがありますが、その教義に染まっているだけでは宇宙の法則に則しているとはいえず、無限とも思えるこの世界を探求することこそが宇宙の法則に則しているのです。

よって、一見すると愚かしい状況と思えるようなものであったとしても当人の理解を妨げるような介入はすべきではなく、それは個人の単位だけでなく惑星という単位でも行われていて、地球で愚かな戦争や紛争が起きていたとしても地球が破壊されるような場合を除いては宇宙の存在はただ見守っているのです。その根幹は非干渉の法則というのももちろんあるのですけど、そのまた根底には、この宇宙の根本原理は理解であるので、宇宙から介入してしまうと惑星に住んでいる住民の理解というものがそがれてしまうため、当人たちがしっかりと見て理解することが必要であるため特別な場合を除いては介入しないのです。

人と人との関係でも同じ事で、他人の問題や葛藤があったとしてお節介にも葛藤のエネルギー(オーラ)を取り除いて解決してあげましょうというのが自称ライトワーカーであり、それは、当人の理解を阻害しているわけです。

そうなると当人の理解が進まずに生命力が落ちて理解力がなくなり従順になり、一方、自称ライトワーカーが自尊心を高める(エゴが拡大する)、という、変な状況になるわけです。そして、ヒーリングする者とされる者との間にヒエラルキーが生まれます。このような背景があって、カルト団体に変なヒエラルキーができているのも頷けます。

そして、カルトの教える教義を知っているものが正しくて正義であり悪を成敗するという構図になり、その一環としてヒーリングやエネルギーワークと称して悪と戦う、みたいな、割と無駄な努力と勘違いが自称ライトワーカーの姿であると言えます。

そのようなことよりも、宇宙の法則は「理解」であるのですから、一見すると悪と思える存在の懐へと飛び込めば良いのです。そして、悪を理解するのです。結局は悪というのは無知のことでしかなくて、理解さえすれば変容できるのです。それだけのことなのに、自称ライトワーカーは何を勘違いして善と悪の戦いにおいて悪を成敗する、みたいな風に理解しているのです。悪は存在しないともいえて、悪は無知であり、善は存在しないといえばそうですが善は知識と理解であると言えなくもないわけです。

ですから、理解を妨げるエネルギーワークは悪と言うこともできて、エネルギーワークと言っても色々ですから理解を促進させるものは善とも言えますが、ここで言っている知識とはカルトの不思議な教義(当人たちは古代の知識とか言って大切にしていますが)のことではなく状況や他人あるいは環境に対する一般的な知識全てであり、善と悪などにまつわるカルトの教義を学ばないといけないということではなく、各自の環境で自らの状況を理解し、周囲にとても酷い状況があったとしすればそれを見て見ぬふりをしたり遠目で批判・陰口を叩くのではなくそれに自ら飛び込んでいく姿勢が必要なわけです。あるいは、醜い状況が周囲にあったとしても関わるべきではなく問題の中にいる当人自身で対応していると思えば他人は関わらずにほおっておけば良いのです。中途半端な関わりを持つような野暮なことはしないことです。やるなら自分がそこに飛び込んでいく姿勢が必要なわけです。

言えば、善と悪のお話は、この「理解」とはそこまで関係がないのです。善が悪を滅ぼすとかいう二元性のある次元のお話でもないわけです。

行動した結果・成果として必要とされるのはいつも「知識・理解」であるわけです。一方、自称ライトワーカーがワークをした結果としての結果が「爽快感」ですとか「楽になった」みたいであったとして、その先に当人が本人の置かれている状況に対する理解(カルトの教義への理解ではなく)へと結びつく結果が待っているのであればそのワークは宇宙の法則に沿っていますが、ワークの結果そのように楽になったものの理解が進まない状況になったのであればそのワークは宇宙の法則的にはあまり役に立たないものであったと言えるわけです。そのように、爽快感とかだけですと(理解という目標に対して)そのワーク自体で結果が出たわけではなく、その先がどうなるかが大切なわけですが、自称ライトワーカーは往々にして「葛藤のエネルギー(オーラ)があれば、それは取り除けば良い」みたいなことをよく言いますが、その葛藤とは実は理解に至る前段階であるのですが、自称ライトワーカーはそうは思わないのです。概して「理解」に重きをおいておらず、理解よりも「綺麗なオーラを保つこと」に興味の大半があるようです。そのため、せっかくあと少しで理解に至りそうな「もやもや」「葛藤」を「取り除いて」、それで解決としてしまっているのです。それは「理解」の邪魔をしている、ということでもあります。それでいて当人はライトワークをしていると思い込んでいます。とんだ勘違いです。

オーラの綺麗さは確かに宇宙の存在それぞれの特徴としてありますけど、とても大きな視点に立った上で宇宙の法則から言えばオーラが綺麗かどうかはあまり関係がなくて、理解の過程で様々なオーラ状態になるのであり、オーラが汚れることもありますが、宇宙的にはオーラの綺麗さはあまり重要視されていません。とは言うもの存在によってオーラの違いはあるのですが、それでも、宇宙の法則の「理解」の方がオーラの綺麗さよりも遙かに重要で、行動の結果として理解を生み出すかどうかが大切なわけです。何度も言いますが理解とはカルトの教義の知識や理解のことではなく置かれた状況における自身および周囲への理解のことであるわけです。そして、そのように自身の足で立てる力を育てるのが本当のライトワークであると言えます。



何度も何度も地球の管理者の意図を理解せずに世界はリセットされた

大概、当人たちは良いことをしているつもりでいて、それは地球の管理者のお眼鏡にかなわなかったのです。例えば、隣の国から奴隷を助ける活動をしていて、それで満足していたり、自分の国の平和に安楽に暮らすだけで隣の国にある地獄のような状況を助けなかったのです。その状況に置かれた人にとっては、そんなことは不可能だと思ったことでしょう。隣の国の奴隷制度を止めさせるなど、無理だと思ったことでしょう。無理かどうかとか、困難だからとか、そういうところは、地球の管理者は感心がありません。関心があるのは結果です。奴隷を酷く使っている国があるとして、それを放置していたら、それを助けるのが無理かどうかとか関係なく、このままでは良くならないと思ったならば世界はリセットされるのです。自分の国で、安全なところにいて、少しばかりの親切や善行をしたところで、地球の管理者は満足しないのです。たとえ奴隷を解放する運動をしていて地球的にはとても素晴らしい善行をしていたところで、その程度では地球が継続できなかったのです。それが、かつてのタイムラインで起こったことです。自己満足しようが何を言い訳にしようが、地球の管理者はそんな勝手な論理は目にも止めないのです。結局は、酷い国が放置されたからこそ、かつてのタイムラインの地球は破棄されて凍結状態になったのです。

今回も似たようなことが起こる可能性がありますが、まだ世界が継続するチャンスは残っています。その時、勘違いして「善と悪の戦いにおいて善が勝利しなくてはならない」みたいな自称ライトワーカーの見当違いの見解で悪の国や団体を滅ぼそうとしてもそれは間違った努力であり、本当に地球の管理者が求めているのは「理解」であることを踏まえれば何をしなくてはならないのか自ずとわかることでしょう。

世界に平和が訪れないのは見て見ぬふりをする大衆が問題だ、みたいなことが良く言われます。それは概略としてはその通りなのですが、では何故それが問題かというと、理解が進まないのが根底の問題ということであるのに、多くの人は平和そのものが問題あるいは目的であるかのように勘違いしてるのです。それぞれの人によって平和の意味するところが違っていて、自分あるいは誰かが平穏に暮らしたいための平和というのは実は最終的なお話ではなくて、平和は理解のための前提条件なので平和が必要なのであって、理解がないのであればお互いに関与しないということですからその平和にそこまで意味はないとも言えて、理解のない平和は不調和を生み出して争いを生みますから、理解のなさと平和のなさは表裏一体であるわけです。お互いに関わらなければ良い、関わらなければ平和になる、みたいなお話もありますけど、それは宇宙の法則に反していますから必ず揺さぶりがかけられ「理解」する方向に動かされます。それが必ずしも戦争になるとは限りませんけど、その理解のなさが大きすぎると戦争や紛争にもなるわけです。



同質の考え方で統一された上での平和は長続きしない

時々、世界が同じ考えで統一されれば平和になる、みたいなお話を聞くことがあります。宗教や思想、はたまた自称ライトワーカーの形而上学(メタフィジックス)などで統一された見解に基づけば世界は思想的に統一される、という考えです。

実のところ、その種の統一理論はこの宇宙の「理解」を妨げますので持続せずに必ず分裂します。この宇宙の根本原理は「理解」であり、それは元々ワンネスだった「自分自身を知る」ということでありますから、何やら1つの思想や理論がたとえ究極と自称したとしても、この「理解」という単純な宇宙の原理と比べてしまうと根本とは言えないものなのです。

この宇宙の根本原理は理解そのものであり、それは、宇宙が未だに自分自身を知らない、と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、この宇宙全体の究極的なワンネスは無限でありますので、無限ということは永遠に拡大する・・・ というと語弊がありますが、無限であれば拡大も縮小もしないのが原則ではありますけど、無限故に、この時間軸に制限されている人間の意識からしたら、今の自分自身たる宇宙の理解からすれば未来の宇宙の理解というのは、宇宙はざっくばらんに言えば無限そのものとはいえ、人間の時間軸からすると、宇宙が成長している、という見方もできるのです。

ですから、今の宇宙の理解よりも未来の宇宙の理解の方が進んでいる、というのは、ざっくばらんに言えば、そう表現することものできるのです。

その前提に立つと、同質の考え方で統一される、というのは長続きせず、思想的なフラストレーションを生み、必ず新たな考え、思想が生まれ、分裂します。

ですから、社会というのは、ワンネスが自分自身を知るために分裂した、という、そのミクロな根本を踏まえてマクロなこの世界を設計する方が良いのです。

集団にせよ国にせよ、お互いを知るために分裂した、ということです。それぞれは別の存在にあたかもなったかのようでいて、別々の存在として生きているわけです。元はワンネスであったわけですけど別々になることでお互いを知ろうとしたわけですから、それと同じように、別々の集団や国はその中では同質な傾向がある一方で、他を外から見て知る、という役割がお互いにあるのです。

ですから、世界の全ての国や思想を1つで統一すれば世界は平和になる、というのは、元々のワンネスたる状態から分裂して宇宙が出来たという動きに反しているのであり、その試みは成功しないでしょう。もっと何十億年も何百億年も経って宇宙が再度ワンネスに戻る時が来たらそのような流れもあるかもしれませんが、当分はそういうことはないでしょう。

そのような前提に立てば、我々人間の側がやるべきことは、そもそも違う存在であるという前提に立ちつつお互いに理解する、という姿勢なわけです。ワンネスたる状態から分かれていったことを踏まえればどちらも「自分」ということであり、自分たる相手を外側から知るために分かれて存在しているわけです。

そして、思想もお互いに自由にすべきであると言えます。多種多様な考え方の中にはおかしなものや不思議なものも含まれるのですが、そのようなものも含めて宇宙は多様性に満ちています。お互いに見合うことで変な思想は淘汰され、正しい理解という方向に向かってゆきます。

ここで大切なのは、誰かが作った正しい理解を学んで理解すれば良いというお話ではなく、各自が自分の環境で自分自身のみならず隣人や他の国を理解するという姿勢なわけです。たしかに勉強も大切ですけど、それよりも、各自の状況において常に理解するという姿勢が大切なわけで、それは世界統一思想による平和とか、そういうお話でもないわけです。

ただ単に、この宇宙が出来た根本原理を理解して、宇宙が出来た理由は「自分自身への理解を得るため」だと理解したならば自ずと争いも止むでしょう。それは根本原理であるが故に各自の環境や国々においては自身の状態を踏まえて各自で考えて良いのであり、その時に、他者への理解ということを前提にするのであればそうそう変なことにはならないわけで、変であったとしても他者との関わりの中で修正されます。

むしろ、修正できないような「統一理論」で世界が統一された時の方が危険で、たとえば形而上学みたいなもので統一されたら世界の思想的な多様性が失われ、そのようなことは宇宙の法則に反していますので持続可能ではないわけです。カルトなど一部がそのような不思議な理論を持ち出すのは全体から見ると多様性を生み出すので宇宙の法則から言っても好ましいですが、その1つの思想で統一するというのは宇宙の法則に反しているわけです。極端な思想はカルトなど一部の人が考えているからこそ宇宙的にも好ましいのであり、一部の思想が広まるとそれは宇宙の法則に反することになり壊滅的な結果をもたらすことがあります。

思想を統一するのではなく、お互いに探求しているということを踏まえ、ほどほどの距離を保ちつつも可能な範囲で理解を相互に進める、という、割と普通な道徳的なお話が宇宙の法則でもあるわけです。こんな簡単なお話で良いのならば、それが当たり前になれば世界に平和が訪れます。いわば平和とはそのくらい簡単なお話なのです。

そして、平和を崩すのはメタフィジックスなど極端な思想で二元論を元にした人たちであり、悪を正義が成敗するという力の論理で世界を統一しようとするとそれは必ず失敗します。何故ならそれは「理解」という宇宙の法則に反しているからです。



ヒーリングと称して他人の学びの機会を奪う自称ヒーラーたち

オーラというものは他人が干渉して取り除いたりエネルギーを補填することができてそれをヒーラーと称する人が行っていますが、なかなか様々な種類があって、中には良くないものもあるようです。

そして、やり方を間違えると、ヒーラー自身にカルマを蓄積すると言います。他人の自由を奪ったカルマです。そして、その結果としてもたらされるのは後の生活における自身の束縛です。ある意味、ヒーラーと自称して活動した結果、その代償として自らの自由を提供している、自らのカルマを誰かに提供することになることもあるようです。

これはというと、カルマというのはそれぞれの人がありますが、とある人が行うべきカルマというのは学びでもあるわけですけど、他人のカルマを取り除いたということは他人の学びの機会を奪ったということでありますから、そのように、他人の学びの機会を奪った、という、それ自体のカルマを蓄積するようなのです。

これは、「エネルギーが変容すればいい。カウンセリングなどよりもエネルギーの変容が早い」みたいに言ってヒーリングという技を使っている人に顕著のようで、当人はその時は感謝されていい気になったり気持ちよくなったりしますが、次第に、学びの機会を奪ったというカルマを蓄積するのです。

そして、大勢の学びの機会を奪った結果、一気にその揺り戻しがきます。と言いますか、悪魔のようなずる賢い存在は表立っては悪魔とはわからず、ヒーラーになりたいと思っているカモを見つけてはエネルギー的な手助けをして自称ヒーラーを作り上げます。そして、そのような悪魔が目的としているのは、誰かがそのようなカルマを沢山ため込んだ結果、自身のカルマを他人に奪われる、という状態を引き寄せて悪魔にその人を使役させることなのです。悪魔は種まきをし、実がなるのが今か今かと待っており、時期が来て頃合いになると、急に、自称ヒーラーは代償を支払わなくてはならなくなります。その代償とは、誰かに行動の自由を奪われる、という代償です。そしてその代償の支払先が悪魔であり、悪魔とは言ってもずる賢いだけで見た目は普通ですけど、他人の自由を奪って使役させたいと思っている存在がいて、それが悪魔なわけです。自称ヒーラーで他者に奉仕していると思って活動しておきながら、結果、他人の自由と学びを奪った罪で悪魔に使役しなくてはならないなんて皮肉なものです。

この世界は、愚かな人は相応にやられてしまう、そのような厳しい一面もあるわけです。自称ヒーラーの中には「よく分からないけど言われた通りにやれば結果が出た。だからこのヒーリングは効果がある」みたいに言っている人もいますけど、そういうのはとても危険です。どんな存在のエネルギーを使っているのか知らずしてヒーラー活動している人がいるのです。そして、大いに持ち上げられて、最後は、他人の学びと自由を奪い続けた代償を支払うことになるのです。当人は「悪魔と戦っている」とか思い込んでいますけど、普通の人は悪魔とか想像とかしないものです。頭の中に悪魔とかいつもあるということは、その当人は悪魔に操られている場合が往々にしてあるわけです。こういうのはキーワードで、頭の理屈で自分はそうではないとか納得してしまうのではなくありのままを見れば悪魔に取り憑かれていることがわかるのですけど、悪魔というキーワードが出てくる人は悪魔が近くにいるとも言えて、悪と戦っている自称ライトワーカーであったとしても実は最初から悪魔の手のひらで転がされているだけ、みたいなことはよくあります。

この宇宙の法則は「学び」でありますから、葛藤や苦しみよりも「学び」の優先順位の方が高いです。それを、エネルギー的に解決すれば良いと思い違いをして「学び」をないがしろにするような人は、いいように悪魔にしてやられる、ということだと思います。悪魔の方がそこらの人間よりも何倍も賢いわけです。



エクセル環境おじさんの計画経済は世界を救わない

30年近く前、「情緒ではなくエクセル計算が環境問題を解決する」と言っていたおじさんがいました。割と共産主義的な考え方を持っており、「環境を救うには計画経済しかない」と言い、言葉では共産主義とは言わずとも中身はそれのようなことを主張していたように思います。環境問題をしている人たちの中で共産主義とか言うと反感を買いますのでその言葉は言わずにその内容をほのめかして喧伝していたのでしょう。今から思えばずる賢い人です。

環境問題には情緒的に関わっていた人もいましたが、そのおじさんは計画経済と言うくらいですからトップダウン方式で経済をコントロールするしかない、みたいな、全体主義の思想の持ち主だったのです。

さて、そのような全体主義は宇宙の「理解」という根本原理に即してみるとどうなりますでしょうか。まず、全体主義というものが理解を生み出すかどうかがポイントになります。その全体主義の総体が生み出す理解が、個人主義の総体が生み出す理解よりも多いのか、少ないのか、というお話です。これにより全体主義が正当化されるかどうかが決まります。

宇宙の根本原理の「理解」とは、平和や情緒があればそれで良いというわけでもありません。そんなことを言えば何も変わらない状態が続くことこそが平和で最上ということになってしまいますが、活発な生命の交流がなければ新たな理解というものはなかなか生まれないわけです。情緒的に安定していて平穏な気持ちに達していればそれでいいというわけでもなく、そこに理解というものを生まないのだとしたら宇宙の根本原理とそぐわず、平穏な状態からはじき出されてしまうのです。

ですから、情緒というものもそれだけでは理解には結びつかず、全体主義というのもそれだけで理解に結びつくかどうかはわからない以上、全体主義が良いかどうか個人主義が良いかどうかというのは他の要因と必ず一緒にしなければ判断できないものであるわけです。その時々の状態に応じて、総体として理解をどの程度生み出すかが焦点になるわけです。全体主義であったとしても、個人主義であったとしても、理解を多く生み出せばそれは良い社会ということになり得ます。今は全体主義が圧政とセットになっているため概して個人主義の方が理解を多く生み出すという状況になっているわけで、エクセルおじさんのように全体主義および計画経済を取り入れれば環境は守られるかもしれませんが、行動を制限して均一化された社会を目指すということであれば人々の自由な交流を阻害し、その社会に生まれる理解は減り、分化は停滞し、それは宇宙の根本原理とそぐわないということになります。

エクセル環境おじさんのように、環境など他のことを隠れ蓑にしつつ他の自分の目的を達成しようとするずる賢い人が一定数いるわけですが、そのような子悪人が多くの人を騙して社会の上に立つと均一化された停滞した社会を生み出すことが往々にしてあるわけです。

このような子悪人が上に立つことで社会が混乱するわけですが、それは既に環境だけでなく政治においても起こっているように思われます。中心に子悪人がいて、それを応援している人が本質に気付いておらず単純な善意で応援していたりしますから厄介で、子悪人が多くの人を騙しつつ善人が子悪人を守るという構図になっていたりするわけです。その結果として子悪人が作るのが均一化された(一見すると)平和な全体主義になり、概して暴力により支配し、時に虐殺も行います。表面的には平和と言いつつも自由のない社会であり、そこに理解というものが生まれず、ただ(一見すると)平穏な日々を過ごすことになります。それは共産主義国家において均一化された平穏な貧乏な暮らしを多くの人が過ごすという状態であり、それはある程度の平穏はあるでしょうが、新たな理解はあまり生み出さないのです。子悪人が求めているのはその程度のものであるわけですが、その小さな考えを持った子悪人が力を生むことで、社会から理解というものが生まれにくくなるわけです。


目的を「環境」だとか「平和」というところに置いてしまうと、子悪人のようなずる賢い人にミスリードされてしまうこともあるわけです。

社会というのは主義によってのみ存在するわけではありませんから、時に、全体主義の方が多くの理解を生むという場合もなくはないでしょう。とは言うものの、主義というのは、宇宙の根本原理の「理解」と直接的に結びついてはいないように思われます。であれば、個人主義か全体主義かという論点は、「理解」という点に関して言えばあまり答えはないように思われます。惑わされてブレないためには、根本のところが「理解」にあるのか、求める先に理解が広がっていくのか、それとも均一化された社会で理解が止まるのか、そこを見極めると主義主張が正しい方向かどうか見極めができるように思うのです。



理解とは何かを理解する「何か」ではなく理解そのもの

よく誤解されるのが、「これを理解すれば良い」みたいなお話ではなくて理解そのものが本質なわけです。

たとえば形而上学とか宗教の教義とか、それは最初の手助けにはなりますけどゴールではなく、ゴールと思うと成長が止まったり傲慢になったりするのです。自分がどれそれを知っているから既に成し遂げた、みたいに思うことは本質的に間違っているわけです。

以前に私の周囲で見たあるあるな風景が、宗教学を勉強して宗教の成り立ちを知ることにより「既に自分は知っている」と思い違いをすることです。ヨーガやインド哲学、はたまた仏教など、大学で勉強して、そのことで「既に知っている」「そんなことをしなくても理解できる」みたいに他人に対して言う人が時々います。その前提にあるのが「・・・を既に知っている」という、「対象」のあるお話であり、それはどこそこの宗教理論ですとか教義ですとか、それを知っているから「既に理解している」と当人は思っているのです。

どうも、両親が宗教を信奉していたり大学で学んだりしている人にこのような傾向が多いように思えて、しばらく時間をかけて学んだことにより「自分は知っている」という思考パターンにはまってしまっているのです。

例えば、両親がそれぞれ創価と似たような宗教だった人の子供は「自分は両親が宗教に熱心だったので、自分は宗教って何だろうと思って大学で宗教を学んだ。」みたいに言っていて、当人は信仰を持っていなくて自分は宗教に騙されなくなった、みたいなことを言っていましたけど、そのように、宗教の家庭に育った人や宗教系の大学という環境においては「・・・を学んで理解すること」という、対象のあるお話しかしないわけです。

そこに一応は「理解」というお話は出てくるにしても、誰かがまとめたお話を理解するということであり、根本原理である「理解」とはそういう次元のお話ではないのに、根本原理に辿り着かずに何かを理解することで自分は達成したと思い違いをするのです。

何かを理解するには対象が必要ですが、その対象が明らかなものであるものを理解しただけで十分と思うのがこれらの人々の特徴です。

確かに、何かを理解するには対象というものが必要で、相対化というものが前提にあります。ですから、理解に達するには対象というものが必ず出てくるわけですけど、ここで言っているのは、宇宙の根本原理というのは理解が及ばないところにある、という点なわけです。

途中までは理解できても、あるところから、理解できない地点に達し、そこで「まどろんで」いるものを対象化し、そして、時間をかけて理解する、と言う過程を経るわけです。

ですから、あらかじめ対象が明らかなものを理解する、ということと、最初は「まどろんで」いるものを対象化して理解する、ということには雲泥の差があるわけですが、世の中の人々は前者をもってして「理解」は十分としているわけですが、宇宙の法則の理解というのは前者ももちろん含みますけどむしろ後者のような姿勢なわけです。

最初は分からない、というのも、対象化されていないわけです。誰かがある程度まで進めた理解に達するというのは割と簡単で、ですが、本当の理解はというとそこではなくて、言葉にならない部分を対象化して理解という形にすることなわけです。そしてそれは一段階では終わらず、宇宙のワンネスに辿り着くまで永遠に続きます。ですから理解には終わりがないとも言えて、「既に達成した」なんてことは言えないわけです。

言えるとしたら、「理解」そのものが宇宙の根本原理であるということはいえて、それは誤解のあるお話ではありますけど、ある程度は原理を示してはいるわけです。



ワンネスは基本原理として「理解」する

究極なワンネスは宇宙がそのサイクルを終えて1つに収束する時まで訪れないわけですが、概念および基本論理としてのワンネスは普遍的に現時点においても有効なわけです。

時に、ワンネスを否定するような流派やカルトもありますけど、確かにワンネスという言葉そのものは1つということでありますから宇宙の終わりに至るまではそれは存在しないというのはある意味その通りとも言えるわけですが、そうでなくても、この宇宙は元々ワンネスでありますから、宇宙が分裂して2つになり複数になりという分離のプロセスを辿っていったとしても、それは、あたかもそのように見えるだけで、本当に存在しているのはワンネスのみ、ということでもあるのです。今この世界が実態があるかのように思えるものは幻想であり、本当に存在しているとは言えない、ということでもあります。それはワンネスの側が本当の存在とすればそれ以外の仮初めの姿は存在していない、というお話であり、あたかも存在している、というのはインド哲学でマーヤーと呼ばれたりするものでもあるわけです。

この世界があたかも存在しているかのように認知されるマーヤーであるとしたら、本当に存在しているのはワンネスの方なのです。

マーヤーもなくなり完全なワンネスに収束する時が宇宙の終わりの時であるわけですけど、そのような長い時のことをあまり考えてもあまり仕方がない面もあって、生きている今の時間軸においてはその究極のワンネスやってこないわけです。マーヤーもワンネスに収束する究極の状態は遙か先であり、その究極のワンネスを除けば、マーヤーは存在しているわけです。よって、あたかも存在しているかのように見えるマーヤーと、実在という意味におけるワンネスは、それぞれ、今でも既に存在しているとも言えて、マーヤーはあたかも存在しており、ワンネスは実在として存在しているわけです。

そして、元々はワンネスであり、実は今もワンネスなわけです。それは実在という意味においてです。ワンネスの側は変化せず一定で満ちている意識です。時間軸において変化がなく満ちています。

一方、マーヤーは物質のことでもあり、あたかも存在していて、物質は創造と維持と破壊の過程を辿ります。

であるとすれば、変化のしない意識のワンネスは常に存在していると言えます。そして、あたかも存在しているかのように見えるマーヤーは自身を知るために分裂を繰り返し、学びを続けています。

このように、意識たるワンネスがあって、あたかも存在している物質としてのマーヤーとが組み合わさっているのがこの世界であり、マーヤーが存在しているのは意識たるワンネスが「知りたい」という欲求によって生まれたのが根本原理であり、そうであるとすれば、宇宙の根本原理とは「理解」であるとこれまた理解して探求を続けていくことこそが人々のあるべき姿なわけです。



お金は悪なのか

お金が悪であるかのように言っている人が大勢いて、スピリチュアル業界においても、時に自称ライトワーカーのような人が「世の中の仕事は全て奴隷。お金を使っている時点で奴隷システムに組み込まれている」みたいに言う人すらいます。本当にそうなのでしょうか。

これも、宇宙の根本原理「理解」に即して考えれば答えが出ます。お金がある場合とない場合、どちらが多く「理解」を生み出すか、でどちらが良いのかが決まります。とは言うものの、実際はその要因だけでなく複合要因になりますから、お金があるかどうかで決められないものなのです。スピリチュアルな人は「宇宙にはお金がない」みたいなことを言いますけど、お金がない宇宙で制限がないからこそ自分の思想が正しくても間違っていてもどちらも継続され、学ぶ機会が限られているのです。正しい思想も継続できて、間違ったおかしな思想も継続できるのが宇宙なのです。それよりも、間違っているとお金の制約があって学ぶことができるこの地球の社会の方がよほど健全だとは思いませんか。

宇宙における争いもそのような自己正当化によってなされるのですが、その場合、自らを省みて学ぶ機会が限られるのです。よって、勝った方が必ず正しいというわけではなく、不調和も生み出しているわけです。一方、地球はというと経済あるいは物質の制約により新陳代謝が起こります。この方がよほど健全なわけです。

地球においても、田舎にいて昔から力を持つ地主や名士がいて、良い人もいれば厄介な人もいて、この地球の現状ですら厄介な人が力を持つと周囲は迷惑を被るのに、お金がなくなって没落というものが少なくなったとしたら、厄介な人たちの影響力が世代で継続したらその社会が継続的に停滞するわけです。それよりは、厄介な人たちが疎まれて経済的に困窮して没落する今の社会の方が健全なわけです。

たしかにお金がなくなると衣食住には困らなくなるかもしれませんが、別のタイムラインの共栄圏で見たように、その人がどのような家柄で何をしているのかが重要になり、家柄と役職およびお供の者を引き連れて初めて良い食事や豪華なホテルに泊まることができて、そこでの扱いも大きく変わってくるのです。お金がなくなればその他の要素で差別化するようになり、その時、一番わかりやすいのが家柄と役職なわけです。そのどちらもない平民は良いホテルに泊まれないか他が空いていない時だけ仕方なく泊めてもらえる、という程度の軽い扱いになります。

そのような、平民が軽くあしらわれる社会が「お金のない世界」であり、貴族や支配者層は没落の心配がなくなって安心かもしれませんが平民は永久に平民になるのが「お金のない社会」なわけです。

それよりも、お金があれば対等なサービスを受けられる今の社会の方が健全であると言えます。今でも恣意的な部分はありますけどそれはバランスというもので、今は大半のサービスがお金で受けられますから健全とも言えるわけです。これからお金が有り余るようになると今よりも恣意的な社会になって会員制ですとか知り合いだけで通用するサービスが増えてくる可能性があり、それが振り切ると上記のように平民が救われない社会になりますが、お金がありつつも恣意的な部分が今よりも多少は増える程度がちょうど良いのではないかと思います。

今はお金さえあれば何でも受けられる、そうあるべき、という社会の風潮ですが、これから、お金が有り余るようになればお店の方がお客を選ぶようになってきて、そうなると、お金で平均的なサービスを受けられるお店と、お金以外の部分でそもそも分けられて平民は存在すら知らないサービスが増える状況になるように思います。それが振り切ることなく、ある程度のところで止まるのが新陳代謝も含めたバランスの良い状態かと思います。

ある程度は恣意的に、会員制やお客を選ぶサービスがあり、その一方で、お金だけで普通に受けられるサービスもあるのです。そのくらいが良いのではないかと思います。

であればお金が悪であるわけもなく、自称ライトワーカーが言うように「世の中の仕事は全て奴隷、お金は奴隷を作るための道具」みたいなお話も嘘だと分かります。結局、そのように、「わかりやすい」お話で単純な人を動かして大衆扇動し、社会をひっくり返すことで利益を得ようという人が一部にはいるのです。一般大衆が「お金は悪だ」と思って政府を転覆させたとして、その結果、お金がない社会というのは貴族が永久に君臨して新陳代謝もなく平民は一生平民であるという世の中になる可能性が高いのであり、そうなれば、いわば平民が全て本当の奴隷になるということでもあります。そんなことのために革命をしたところで平民が損するだけのことで、平民が騙された結果、平民ではなく貴族が大笑いをするだけのように思います。そのように、いいように操られている人がいて、自称ライトワーカーというような人もその操られている人の一部であるように思います。

確かにスピリチュアルな人が言うように宇宙にはお金はなくても、宇宙においては縁がなければ関わることのできないという深い溝がそれぞれの生命体あるいは意識体の間に存在しています。そうなれば、そもそも、サービスが存在していることにすら気がつかない、情報の遮断というものが絶対的に存在してしまうわけです。それよりも、看板が出ていて集客していて、お金さえあればある程度のサービスを受けられる、という今の現状の方が多くの人にとって幸せなのです。



何かを知っている、ということを生きる糧にしている自称ライトワーカー

秘密主義であり、相手が知らないカルト理論を自尊心として隠し持っているのが一部の自称ライトワーカーであるように思います。

一方、健全な活動はその指針を最初から公開しています。その指針は分かりやすいものである一方で深い面もあり、最初は表面的に理解して、後でまたその意味を再度、改めて理解する、という場合が多いように思います。

例えば「理解」などというお話も最初に聞けば「そうなのですか」と思うくらいですが、その内容を宇宙の根本原理と合わせて理解すると「理解」というものに対して新たな視点が開けるのです。そのように、奥深い理論を含むのが健全な活動であると言えます。

一方、例えば自称ライトワーカーが最初は「他人に迷惑をかけない」みたいなことを言っていたとします。しかし、それは全てを言い表してはおらず、隠し事をしているのです。そのように、自称ライトワーカーは隠し事がお好きなのです。

一般社会においても、隠し事が好きな人にはあまり良い人はいないでしょう。それと同じです。何か、含むものがあって、闇があるのです。

確かに、過去において一部の宗教団体や思想は弾圧されたり誤解されたり興味本位の嘲笑の対象になってきましたので、自身のスピリチュアルな成長の妨げになるという理由で公開を辞めた団体や思想もあります。

とは言うものの、自称ライトワーカーは本当のことを言わなくて、後で「実は・・・」みたいなことを言ってマウンティングすることが多いのです。ですから、話をしていても、「本当はそうではないけど、そう話した」みたいなことがあって、真面目に話せないのです。いつも表面的かと思いきや、「実はその先は言えない」みたいに言うので、本心が隠れているのです。

そして、「言えない」と口にする時に見え隠れする自称ライトワーカーの自尊心が気持ちが悪いのです。それはエゴです。自分だけが真実を知っているという驕りがそのような表情に表れるのでしょう。自称ライトワーカーの中にはあまり健全な団体ではないものもあるように思います。

何か知っているそぶりを見せて煽ってきても、あまり関わらない方が良いと思われるのが自称ライトワーカーです。

本当のライトワーカーは、どちらかというと世間にいる普通に優秀な人に紛れています。一方、自称ライトワーカーは何やら知っている風なそぶりをして煽りをかけてきます。その違いは歴然です。

例えば、流派にもよりますが転生の仕組みにおいて自称ライトワーカーは特殊な体系を持っていることがあり、例を挙げるとすれば、まず大前提として転生はなく、よって、生まれたら1度きりな体系があります。その場合、前世もなく、生まれ変わりもないわけです。前世と思われるものは生まれる前に下見をしたことによるエマネーションによるものだとしています。そのように、自称ライトワーカーは転生は1度きりと教えられて生きています。これは何故かと言いますと、そのような間違ったことを正しいと教え込むことによって2つの効果が現れます。

・自称ライトワーカーのゲームに参加している人を周囲の人が見分けることができる
・当人たちのエゴをむき出しにして、内省を早める。

自分たちだけが本当のことを知っているので優位」というエゴをむき出しにする効果があるわけです。更には、それは実は特定のゲームに参加している人たちだけが無意識の了解の元にそのように教え込まれているわけですけど、当人たちの顕在意識は本当のことに気付かず、間違った教えを単純に「自分たちだけが知っている本当の教え」として信じ込むのです。そして、自称ライトワーカーたちが直面すべき課題に対して向き合うことができる環境が整います。それは正にこの地球上に用意された学びのためのゲームであり、言い換えれば「夢」と言っても良いものです。本当のことではないとはいえ、当人たちは「自分たちが知っている真実」と信じ切っており、それを周囲から本当のことを言っても「ふふん、自分たちだけが本当のことを知っているのだから」と他人の意見を退け、自分たちのゲームを続けるのです。そのように、隔離された環境を作り出すのです。

実のところ、真実というものは変わらないわけですからそれなりにスピリチュアルが成長すれば多少の表現の違いこそあれ同じような結論に辿り着くのです。それなのに、とても特殊で不思議な体系を教え込まれてそれが「自分たちだけが知っている真実」と信じ込むのは、盲目的であるというものです。その、盲信的であるが故に特殊な内省をすることができるのです。

そのように盲目的になってこそ、オリオンから続く大いなる課題を内省することができるのです。その昔の記憶あるいはカルマと言って良いものを内省するには様々な当時の前提条件をある程度模倣する方がやりやすく、転生に関する不思議な解釈もその1つなわけです。自称ライトワーカーの生死感は当時のオリオンにおける教義をある程度再現したものです。よって、周囲から見れば不思議な体系を持っていたとしても、当人たちが学ぶための前提条件であるわけですから、周囲がその邪魔をすることなく、当人たちの好きにさせれば良いのです。

自称ライトワーカーは「他の人に教えてはいけない」という秘密主義を取っていますが、それは、他の人と共有したり確かめ合って真実を追究してしまうと自分たちの理論が現実と合わなくておかしいことに気がついてしまうからなのです。その理由は、大いなるカルマを解消するための前提条件としての環境や思想を整えることに目的があるわけです。

そもそも、「何かを知っている」ということでワクワクしてしまうのはスピリチュアル初心者にありがちで、その程度でもあるわけですけど、それでも、そのような純真な心を持って信じ込むことで大いなるカルマを解消する前提条件が整うわけです。

ですから、カルマを持たない他の人がそのような不思議な人を見たらそおっと放っておくのが良いかと思います。



自らの理解の妨げになる人とは付き合わない

行動が好ましいかどうかは結果として生まれる理解が大きいかどうかで判断できます。その範囲はそれぞれの行動の影響範囲に応じていて、個人であれば基本的に個人としての範囲で生まれる理解の量がその基準となり、団体であればその団体としての範囲で生まれる理解の量がその基準になるわけです。

ですから、自らが何かに興味があり関わっていて理解を生み出している時、他の関わりをすることでその興味へ割く時間が削られて生み出す理解が減るのであればその他との付き合いは障害とみなされるわけです。

仏教とかですと単純に「不道徳な人とは付き合わない」と言いますけど、それも確かにある程度は正しいわけですが、不道徳な人とそれに近しい思想を持つ人とであればお互いにその不道徳な行動から学ぶものがあるわけです。特にそこに道徳的かどうか不道徳かの基準があるわけでもなく、単純に、理解を生み出す量が多いかどうかで宇宙は行動を正当化するように思うのです。とは言うものの不道徳な行動は迷惑をまき散らしますので基本的に不道徳な行動は理解を増やさずに他人を誤魔化したり騙したりして他人の理解を邪魔するわけで、そうなると、やはり不道徳な人は社会にとって害悪なわけです。それは二元論的な善と悪の解釈ではなくて、理解を阻害するので宇宙の法則にそぐわない、という意味での害悪なわけです。

よって、基本的には相互理解が基本になるとしても、不道徳で信用できない人とは付き合わなくて良いわけです。そうすることによって不道徳な人が孤立して経済的にも困窮します。

一部には、某国やテロ集団のように嘘を広めて自分の不道徳さを隠して自国を美化して他国を貶めるような国や集団もあるわけで、そのように不道徳な国や集団というのも宇宙の法則にそぐわないので長期的には継続できずに崩壊する定めにあるように思います。

こういうことをいうと、決まって「他人と付き合わないなんだ、なんて酷いことを言うのだ」とか言う人がいますけど、不道徳な人と付き合わないことのどこが酷いことなのでしょうか。不道徳な人の方が酷いのは当然でしょう。上手いこと宣伝すれば真実が隠れて自らの歪んだ思想が通るのがこの世界の現状でしたが、宇宙の法則はそのような歪んだ不道徳の継続は許しませんので大いなる反動が来ます。その時は実はその反動はその不道徳な人だけでなく大勢お巻き添えになるのが常です.と言いますのも、不道徳な人を止めなかったカルマが蓄積されているのであり、特に、間違っているとわかっているのに報道するのを辞めなかったマスコミは「自分たちは報道していただけ」という言い訳は通用せずに崩壊の道を辿っているのは今既に起きている事実かと思います。

これから、このような既存の仕組みの崩壊が加速するように世間では言われていて、その理由としてそういう時代だとか色々と語られていますけど、その理由としては宇宙の法則の「理解」を妨げているから、というところにあるように思うのです。



ワンネスとは同質であることではない

時々誤解されるのが、ワンネスになると全員同質になって同じように考える、という解釈です。ワンネスまで行けば1つであることは確かにそうですがこの宇宙は「理解」のために分裂したわけですから、分裂した個々が同質になるということは元々の宇宙の「自分を知る」という目的とは反するものなのです。そのようなことをしたら皆同じになって自分を知ることができなくなってしまいます。よって、同質の人々で構成されている社会、そのようなところを目標として活動している団体や国というのは必ず崩壊します。何故ならそのような同質化は宇宙の法則にそぐわないからです。

このような同質化は社会あるいは団体の停滞を招き、生きがいのない、暗い顔をした、よどんだ人々を生み出します。

一方、多様性のある社会というのは変容をもたらし、人々が生き生きとし、明るい顔をした、楽しげな人々を生み出します。

一見すると平和で悩みのない社会というのがワンネスかのように誤解されがちです。私のグループソウルの記憶の中にプレアデスに転生した記憶があるのですが、そこはとても平和である一方で、間違った価値観を許さないという窮屈さもありました。プレアデスの社会は礼儀正しく振る舞う人の割合が多く、一見するととても高度なレベルの調和があったわけですが、そのような排他的な面こそが争いを生むということにプレアデスのような人たちですら気がつかなかったのです。

プレアデスの基本的な考え方によれば、人々が皆調和になれば争いは止む、ということがあります。ですので、そのような考えに基づき、地球を助ける際も「調和によって争いを止めさせる」という試みが何度もなされてきました。中東の紛争にしても、多くの人たちが同じような試みをしてきてその無力さに無力感に苛まれてきたのです。

これはどうしてでしょうか。それは、他人を変えようとしてきたからです。他人を変えて同質にしようという試みは必ず失敗します。最初は良くても、そのコントロールに気がついた人々が怒りの行動を示すようになるからです。コントロールしようとしている側としては人々が良かれと思ってやっている場合も多々あり、人々が受け入れば幸せになるのに、どうして人々は同質になって幸せにならずに苦しむことを選択するのか、人々の気持ちを理解出来ない場合も多いわけです。

これはプレアデスと他の社会との交流でも起こりました。プレアデスは自分たちのやり方に他の社会も合わせるべきだと考えたのです。そして、プレアデスの社会と異なる箇所を見つけては、それを修正することで調和に至る、というお節介をしたのです。これが、他の社会への介入とみなされ、調和のための提案であったものが調和を乱す者としてプレアデスは他の社会からみなされるようになりました。

これは、どちらかの文明が勝つことでその文明に同質化され、「勝てば官軍」と言われているように、優れた文明だからこそ勝利した、という歴史が作られてきました。それによりプレアデスの優位性およびその平和を守る者としての地位は揺るがないものになったかに見えました。

実のところプレアデスの人々の社会性とは礼儀正しい白人ような人たちのようなものであり、ハキハキと明るくて明晰で、アメリカ社会の基本的なところにも通じるものがあります。アメリカが他国をお節介で介入して紛争を止めたり広げたりを繰り返しているのも、どこかプレアデスのやり方に似ている部分があるように思えます。平和と調和を謳いつつも、同質の社会をもたらすという点においてもプレアデスとアメリカ人はどこか似ているのです。

そして、自称ライトワーカーあるいは環境活動家、思想家、といった人たちがこぞって言うのが「調和によって争いを止めさせる」という主張です。立場が違う筈なのに、何故か、この点においては割と意見の一致を見るのです。これはプレアデスなど、過去において成功体験があった人たちの流れを組むものであるように思えます。そして、割とこの点においては人々は良く納得するのです。ここが落とし穴です。

かつてプレアデスやオリオンにおいて、そのように、「調和」を表立っては目指しつつも実は「同質」になることを目指してきた動きがありました。そのように、調和だけであれば皆が納得するものの、その背後に、「それは、同質になることを意味する」という暗黙の了解があったのです。これが、「調和」という言葉に隠された意図であり、そこが、争いの種になったのです。

言葉そのものを見てみれば「調和」は「調和」それだけでしかなく、そこに、「同質」という意味はありません。しかし、過去において、「調和」と言ってきた人たちの中に無意識あるいは薄々気がつきながら「その調和とは、同質になることを意味する、よって、我々の社会と同じように皆がすれば調和は達成される」と考えた文明が多くあったのです。そして、その1つがプレアデスでした。

プレアデス、オリオンなど、数々の文明が交流し、やがて、調和を目指したものの、その調和とは「何かの1つである同質になること」であったがために、それは宇宙の法則の「理解」に反するものであったために、宇宙の強力な抵抗の力となって現れたのです。それがオリオン大戦の起こった根本的な原因であったように思えます。

人々は考えました。「なんだ、調和とか平和とか良いことを言いながら、結局、支配しただけじゃないか。俺たちは騙された。」と言い、反乱軍を組織しました。一方、支配者側からすれば「調和を乱す乱暴者たちは取り締まる必要がある」と考えました。調和で平和な社会を乱す反乱者として扱われたのです。

プレアデスは均一的な調和の取れた社会でしたし、今もそうですが、どこか社会が停滞していて、それ故に、他の惑星に関与してその惑星の霊的な成長を助ける、という宇宙的な活動もしています。それはスタートレックにも代表されるような人道的な活動でもあるのですが、その活動が最終的には均一化された社会を目指したが故に、一部の社会から反発が起きたのです。

プレアデスの主張するワンネスと調和というのは、今とは少し違った意味を持っていたように思います。そこでのワンネスとは均一化するということであり、プレアデスのように調和な社会になれば平和が訪れる、ということでした。実はそこに、大きな争いが発生する火種があったのです。

実のところワンネスというのはそのようなことではなく、究極的には1つであって宇宙は「理解」のために分離した、という根本原理を説明するためのワンネスと、今ですら実は高次元の根本としてはワンネスである、という両面のお話なのです。ですから、実はワンネスであるからといって同質の社会を目指す必要はない、と言いますか、全く異なっていても常にワンネスであるわけで、戦争をしていたとしてもそれはどちらもワンネスなわけです。そのように不変で変わらないからこそワンネスであるわけですが、ワンネスとは同質化された社会や考え方を目指す、という解釈が昔から存在しているわけです。

これはスピリチュアルでも一般的にそうで、スピリチュアルでワンネスというと同質な考え方や動きを暗黙に期待および矯正する、という面が往々にしてあるわけです。そして、それにそぐわない人は調和ではないと考える。そのように画一化された人々が生み出される、あるいは、人々を画一化した考えに導くような状況は、実は、「理解」という宇宙の法則に反しているのです。

このような考えで動いた結果、例えば地球の紛争を解決しようとしても、それは「理解」という根本原理に沿っていませんので、いくら「調和によって平和を導く」と活動をしてもはじき返されてしまうのです。

ましてや、単純な二元論に陥って「こちらが善で、あちらが悪」とみなし、紛争を起こしている片方を悪とみなして懲らしめたとしても、そこに「理解」というものがないのであればその人たちの中から新たな紛争をやがて生むことになり、争いは終わらないわけです。

二元論の自称ライトワーカーは「争いがあったとき、先に手を出した方が悪い」という単純なお話をします。どちらが先に手を出したのか分からないような長く続く紛争に関しても「そういう場合でも、辿っていけば、先に手を出した方が悪い」という単純なお話で片付けようとしているのです。そのような二元論がこの社会に争いを生んでいることに考えが及ばないのです。片方が善でもう片方が悪だとしてしまったら、悪である側はその後ずっと下級市民として虐げられてしまいます。そのような階層社会に救いが本当にあるのでしょうか。そのような二元論による社会の分断を自称ライトワーカーが作り出したとして、本人たちはその現実を目視できるのでしょうか。単純な二元論を由として悪を成敗する、という子供のような考えに陥っているだけで、この社会に平和が訪れると本気で思っているのでしょうか。そのように、「理解」の視点の欠けた活動は必ず崩壊し、争いを生みます。

同質の社会を目指すのではなく、理解できる範囲で理解し、理解できないところが必ずあることを前提にする社会にする。それが必要であるように思います。ですから、理解できる範囲でまとまって生活し、理解できない人とは限定された付き合いをすることです。それは今すぐに理解できないというだけで理解を目指すべきであり、無理をする必要はありませんが、分断を前提にするべきではなく、同質の社会を目指す必要はなく、同質にしたいのなら自発的にそうすれば良いのであって、他者から押しつけられるものではないわけです。

押しつけられた同質化というのは理解を欠き、社会の停滞を招きます。一方、少しづつでも理解を基本とすれば数パーセントでも少しづつ成長していきます。それは同質ということではなく、そこには変化があります。変化があるということは幾分かの破壊と再生があるということです。その中間に一時的な「維持」があります。

プレアデスは「維持」に極端に偏った結果、同質化をもたらし、新陳代謝が失われたことによって社会の停滞に至ったように思うのです。自称ライトワーカーも似たようなところがあり、「維持」を目標に掲げて同質化および調和による平和を目指しているという点で、プレアデスの流れを幾分か受けているように思うのです。自称ライトワーカーにとってみれば「宇宙の教え」に従っていると思っていて、それで地球が救われると思っているかもしれませんが、実のところ、この宇宙の法則は「理解」であるために、自分で考えない者には答えはやってこないのです。

誰かに教えられた教義ではなく、自分の頭でしっかりと考え、何が良いのか、何が悪いのかを考える。そして、同質化に甘んじることなく、どこに向かえば良いのかの答えを見つけること。それができないのであれば地球はまた分裂して紛争は続くでしょう。

一方、「理解」を元にすれば意外なほど早くこの地球に平和が訪れます。「なんだ、そんなことだったのか」という単純明快で誰もが分かるお話でこの地球に呆気なく平和が訪れる可能性が示唆されています。理解してしまえば変容はすぐなのです。

そうなれば、同質になる必要もなく、同質になってみる自発性もあれば、自由に新たなことをやってみることもできるのです。そこに理解が生まれます。それこそが地球の目指すべき道であり、その結果として「調和」「平和」というものもやってくるわけです。

その根底にあるのはワンネスに対する理解ですが、ワンネスが同質であることを意味しなくなり、ワンネスが本来の意味である根本であることが人々に理解され、それにより、同質化を強要する人もいなくなるのです。そして、本当の意味のワンネスに基づいた平和が地球に訪れ、多様性および理解に基づいた社会に導かれてゆくのです。



オリオン大戦の残党が地球で自称ライトワーカーごっこを繰り広げている

当時のオリオン大戦の武装、規模、人員の数、どれを取ってみても地球上にそれに比類するものはなく、光の側と呼ばれていた人たちが勝ったのかも負けたのかもよく分からない状態になっていた当時の思い出がここ地球で再現されているのです。

これは表現が微妙で、必ずしも再現というわけでもないのですが、当時のカルマを持った人たちが、ここ地球で、同じ事をしているのです。

自称ライトワーカーあるいは光の戦士などと称して悪を討ち滅ぼす、そのような二元論に基づく単純な構図により自らの暴力を「力の行使であって暴力ではない」として正当化し、この地球上で正義による統一を成し遂げようとしています。

しかしながら、それはあくまでもオリオン大戦の失敗に基づく繰り返しをしているだけであり、今の地球に住んでいる人はその自覚はないかもしれませんが、何故その時に失敗したのか、それを学ぶために同じことを地球で追体験しているように思うのです。ですから、傍目から見ておかしく見えてもそれを妨げない方が良くて、当人たちが自分たちが行っていることを自覚して学び尽くすまでその遊びは続くのです。そう、それは遊び・・・ と言って良いほど当時とは違っていて、当時は武装を持った軍隊および具体的な行動が伴いました。今は具体的な武装なしに、スピリチュアルなものとして効果が当人たちはあると思っている儀式(リチュアル)を駆使して世界を救おうとしています。ですが、それは当人たちにかけられた幻想、いわば夢の世界を生きているのです。

当時、オリオン大戦での記憶、それがこの地球に住む状態においても周囲に投射され、本来ないものであるリチュアルの効果というものを生み出しているのです。確かに多少の効果および周囲へのオーラの影響はあるのですが、それは、無念にも統一の夢が破れ去ってしまったオリオンにおける記憶を投影しているに過ぎないのです。

そして、この地球上の出来事は「夢」であると時々スピリチュアルでは語られるように、本来の人生というのは宇宙の方にあって、この地球では制限の元、お互いに学ぼう、という目的を共有して、大した武器も持たずにライトワーカーごっこをしているのです。それは本来のオリオンの時代と比べたら夢のような儚い、小さな、影響力をほとんど持たないものです。ですが、このような体験をすることにより自身が行ってきたライトワークというものがどのような破壊的結果をもたらしたのか、学ぶことができるのです。

二元性のあるライトワークというのは善と悪に分かれ、自身の側が善であり悪は滅ぼすべき、という単純な構図になります。それが時と場合により関係性が複雑になるにせよ、基本的な構造は単純なわけです。

自称ライトワーカーは「(固定化された)何か」を理解すれば世界は平和になると思っているのです。その、「(固定化された)対象のある」理解さえすれば良い、という概念がそもそも勘違いなのです。1つの考えであるところの善と悪および善による世界の統一というストーリーは成り立たないのですが、それをオリオンの時と同様に、今度こそ実現しようと自称ライトワーカーが(実質的には)割と無駄な努力を繰り広げているのです。それは社会の有り様には意味がなくても、カルマの解消という点においてはそれなりに意味のあることなのです。

その構図をこの地球上で再現して、自称ライトワークを行い、実は大して意味がないといえばそうなのですが当人たちはまさに「夢」の中に生きて、社会に貢献していると思っていて、当人たちは地球を救っていると思っているのです。それは決して無駄なことではなくて、この地球という学びのプラットフォームがなければ更に長い時をかけてオリオンの記憶を整理および統合していかなければならなかったものを、物理的な体による制約を受けたことにより学びが加速されているのです。

神様が用意した箱庭においてライトワーカーごっこを繰り広げているのです。時に、勘違いをしたカルトが現実社会に影響力を与えようとすると地下鉄なんとか事件のオ○○みたいなことが希に起こりますが、たいていの場合、大人しくライトワーカーごっこをしている分には害がないのです。

ですから、自称ライトワーカーがライトワークごっこをするとしても、それは、オリオン大戦を繰り返さない、という学びにおいて、重要な意味を持つのです。ですから、学びは継続されなくてはならない。でなければ、またこの銀河は分裂を繰り返します。

その答えは既に「理解」という宇宙の法則にあるのですが、そこに気がつくまでライトワークごっこは続くように思います。ですから、見守ることが肝心かと思います。

ちなみに、この「夢」というお話は時にスピリチュアルで誤解されているお話でありますけど、この地球という状況は特殊で、学びのために特別に準備された場であるわけです。それを誰が準備したかは以前に少し示唆した通りではありますが、誰が準備したかはさておき、この地球に「夢」のように儚いものとして生まれて物理的な制限下で学びを深めているのです。

宇宙においては制限が遙かに少なく、自らの「理解」が宇宙の法則と照らし合わせて間違ったとしても広大な宇宙の中ではそれなりに正当化され、存在することができてしまいます。何故なら宇宙はそれだけ広く、無限ともいえる可能性がそこにはあるからです。ですが、それですと宇宙が目指している統合および「理解」にはなかなか結びつかず、異なる文明が接触した際に分裂およびお互いが正義および善を主張して悪(という決めつけ)を滅ぼす構図ができてしまうわけです。そのような状況は最初は善が勝利したかのように見えて実は「勝てば官軍」という状況になっているだけであり、やがて、これは間違っているのではないかと気づき始めた人たちがいたわけです。と言いますのも、繁栄しているかのように見えた文明、例えばプレアデス等もどこか停滞の兆しが見えていたからです。

そして、そのように、問題意識を共有している人たちが、その停滞および成長できない問題の原因は何だろうか、と探り、「夢」としての地球への転生において学びを深めているわけです。

そのように、本来の人生は宇宙にあって、学びのために「夢」として地球に転生しているとすれば話は簡単で、オリオンの時のように本来の大きな戦闘はあり得ず、小規模あるいはリチュアルのような儀式のみで自己内省しているのです。そこでは本来の効果は大してない精神的な行為を繰り返すことによりライトワークをしていると自分では思いつつも実は自省し、オリオンでの出来事を追体験することで学びを深めているわけです。

当人たちはライトワークで地球を救っていると自称していたりしますが、地球の方はというとそこまで困っていないわけです。困っているのは自称ライトワークを行っている自身の方で、オリオンの苦い経験を理解しようとしているわけですが、それを自覚していなかったりします。むしろ、オリオンの記憶を呼び起こしてその時に起きた出来事を改めるかのように今回はきちんと光の側が勝利しなければならない、と思っていることの方が多いと思います。そうは言いましてもこの地球上でそのようなカルトが大きな力を持つことはないのであまり気にすることはないかと思います。これらは、あくまでも課題のある一部の方の精神の内面で行われているものなわけです。

そのような自称ライトワーカーの想念形態を見ると、「(人々を)平和の気持ちに変容させる」「善(=維持、あるいは天使)が悪(=破壊、あるいは悪魔)に勝つ」という二元性のある気持ちで凝り固まっています。そのような状況を見ると、遠目にも、オリオン大戦とはどのようなものであったのかを垣間見る事が出来るのです。かつてそのようなところに関わっていた人にとってはカルマとしてその記憶が蘇り、また、関わっていなかった人にとってはその記憶により学ぶことができるのです。

それはオーラを読み取れば歴然です。どのようなオーラによってそのような人たちが活動しているのか、そこに、オリオンに関わった人であるいわゆる「光の側、ライトワーカー」たちが偏った見解を持っていたことが読み取れるのです。それ故に、オリオンのカルマを持つ人たちは学ぶ必要があるのです。当人たちはそうは思っておらず、同じような考えで今度こそ勝利しなくてはならないと思っていたりしますが、それはオリオンの記憶が蘇っているだけのことで、地球ではそのようなことは起こりません。オリオンのカルマにより紛争をしている、という面もあるのです。それは自称ライトワーカーですらそうで、自称ライトワーカーが「善」を主張して「悪」を滅ぼすために紛争を思想的に支えているのです。当人たちは絶対的に自分たちは善で正しいと思い込んでいますから他人が何を言っても基本的には無駄で、本人たちが気付くしかないのです。

オリオンの記憶を呼び起こして、それと気付かずに問題だけを学べるようにしたのがこの箱庭なのです。地球全体が箱庭というわけではなく、神様が、必要な人に必要な箱庭の思想体系を用意してそれが真実と思い込ませたのです。それが箱庭としての思想のひな形です。

又、その舞台で踊る役者をそろえるために「イニシエーション」と称して「設定」の入ったオーラを他人に埋め込み、その気にさせます。これで役者は整いました。あとは、役者が踊るだけです。

ですから、端から見てカルト教団が自称ライトワークをしていて不思議に思えたり、はたまた傍目には気持ち悪く思えたりするかも知れませんが当人たちにとっては重要な学びをしているのであり、この地球はそのような多様な学びをするプラットフォームであるわけですから、そのようなカルマのない人がそれを見たとして、特に用がなければほおっておくか、見守るくらいがちょうど良いのではないかと思います。

そして、そのように自称ライトワーカーの活動すらも(愚かなことではなく)「学び」「理解」の一環なのです。善と悪に分かれて善に勝つというストーリーが如何に理解を阻害するのか、その全容をこの地球という「夢」で学習しているのです。それは夢とは言っても幻想ではなく、現実たる宇宙に対してこの地球は夢で、一時的な学びを加速的に制限下で行うことでよりよく理解できるようになっているのです。

どちらにしてもそのような地球での活動は「夢」でしかありませんから、ひとときの炎のように燃えさかっては消えることでしょう。時に、カルトであったとしてもオリオン大戦の残り香としてそのような儚い夢を見るのも悠久のこの時における「学び」の楽しみの1つと言えるのです。

そして、更には、そのような自称ライトワーカーでライトワークごっこをしている人ですらも地球の管理者からすれば救済の対象であり、そのオリオンからの呪縛を解消して人々を自由にし解き放とうとしているのです。

と、言いますのも、そのような自称ライトワーカーたちの「箱庭」としての心の世界を作り出したのは、やはり神様なのです。ですから、その世界観が本当のこととは異なっていたとしても、それで良いのです。その箱庭においては転生はなく自分たちが世界を救うライトワーカーだという設定になっているのです。そして、神様はその箱庭によってオリオン大戦で何故に「善」を自称していた人たちが失敗したのか、追体験させて本当は何が必要だったのか学ばせようとしているのです。その試みは閉じられた箱庭で行われているものの、周囲の人の干渉もありますので、ですので、秘密主義にして自分たちだけが本当のことを知っていると思い込まされているのです。それによってオリオン大戦の失敗を学ぼうとしているのです。

神様が用意した箱庭で、幻想のような「夢」を見つつ自称ライトワーカーたちがいわゆるライトワークごっこを繰り返しているのは、オリオンのカルマに基づいて学びを深める必要があるからであり、決してその時と同様に光の側のライトワーカーとして悪を滅ぼすという単純な二元論を再現するためではないのです。この地球で二元論による勧善懲悪が行われているが故に紛争が絶えないのは同じ根本原因によるものであることを理解するまでその箱庭ゲームあるいはライトワーカーごっこは続くのです。



地球を1つの考え方あるいは「善」で統一させないのが地球の管理者の意思

これは一見すると「悪」であるかのように見えるかもしれません。ディープステートや陰謀論に代表されるような、混乱を目的とした悪意のある管理者であるかのように思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。

宇宙の法則は「理解」であるが故に、片側の意見だけを尊重して「善」によって地球を統一することは、そうではない側を「悪」とみなして弾圧することに繋がるのです。

ですから、地球の管理者は、片側の意見だけを「善」とみなして地球が統一されることを阻止しているのです。そして、善も悪もないような世界を目指しています。それは、いわゆる「善」によって地球が統一されることとは全く違うお話です。ここに、理解の壁があります。

一般的にスピリチュアルでは「善によって統一されることにより、善も悪もない平和な世界が訪れる」と理解されているように思います。しかしながら、そこで言う「善」が二元性のある片面における「善」であるならば、それ以外の価値観はないがしろにされ、存在価値を失ったかのように尊厳が失われてしまうのです。

実際はそのような二元性の善も悪もなく全てが「自分」であるワンネスがあり、自分を理解することが目的であり、自分とはワンネスそのもの、ワンネスそれ自身、および、分裂した状態の自分たる分身たちをも含んでワンネスであり、その全ての「自分(私)」がワンネスたる自身を理解するために分かれて存在しているだけなのです。それはワンネスとは何かを理解するだけでなく、実際に、他者もこの環境も物質も全てがワンネスたる「私」である前提で物事が理解されてそのように行動することであるわけです。頭の理解だけでなく、本当に理解したら行動も伴うということです。

ですので本当は二元性の善というものはないのですが、善だけを持ち出して地球を統一することは、当人たちは「統一」「統合」を謳っていたりもしますがそれは本来のワンネスの意味の統合・統一ではなく二元性の善による統一・統合であって、そのような二元性のある統一・統合は地球の管理者は許さないのです。

たとえ、努力によってそのようなことが成し遂げられたとしても、地球の管理者からすれば、そのように片方だけの価値観で統一された社会というのは「学び」が減るために、失敗とみなされます。それは、地球の時間軸が凍結されて別タイムラインに以降するか、あるいは、大災害が起きて部分的にやり直す、という具体的な結果として表れます。

多くの人は地球の管理者の意思を誤解していて、「悪魔に支配されている」ですとか「支配者がいる」「奴隷にしようとしている」みたいな噂を立てますけど、それは思い違いというもので、地球の管理者が介入しなければこの世界はただ1つの思想で統一されて他の考えを許さない、管理といいつも思想統制された社会になってしまいます。今後AIやITによる管理技術が進むにつれてそのような社会が加速される可能性がありますが、そうなると人々から「学び」の機会が減り、宇宙の法則たる「理解」と反しますので、地球の管理者はそのような学びの少ない社会は不要ということでリセットを決断することになるわけです。

ですから、地球の管理者は支配しようとしているわけではなく、人々が地球の「総体」として全体としてどの程度「学び」を増やすことができるかを重視しており、それはAIのように結果だけ得られれば良いというものではなくて、人間の「意識」それは高次元の意識の表れでもあるわけですが、その意識が「理解」をどの程度得られるがか重要なわけです。AIで優れた結果が出ようともそれは「意識」にフィードバックされませんから価値としてカウントされないのですが、人間がAIの結果を見て学ぶのであれば人間の意識の学びはカウントされます。

地球の各国の支配者層が地球を統一しようとした際に、その結果として地球全体の意識の理解を増やす方向に向くのであればその統一は地球の管理者から肯定されて継続を許されます。一方、思想弾圧あるいは同調圧力などにより地球全体の意識の理解を阻害する方向に向くのであればその統一は地球の管理者から否定され、その統一は成し遂げられないか、あるいは、地球のリセットが行われるわけです。それは全て、宇宙の法則たる「理解」に沿っているかで判断されます。

よって、自称ライトワーカーが「善」を主張して悪を滅ぼすことで地球を救おうと思い描いていることについても、そこで言っている善が二元性のもので思想を1つに統一する(例えばメタフィジックス・形而上学など)ということであれば、その結果として地球の人類の総体としての「理解」を阻害するのであれば、それは地球の管理者から否定されます。状況は多様に変わりますので、そのような不思議な論理ですらも他の要因と相まって地球の人類の総体としての「理解」を促進するという可能性もなくはないですが、基本的には、二元論を基本とした「善」が悪を滅ぼすというストーリーは子供じみた次元の低いお話で、世界の紛争はそのようなレベルで起きているのであり、単純な二元論では基本的は争いは継続しますし、もし「善」と称する側が勝利することがあって争いが止むようなことになっても思想的に貧弱な状況になるようであれば地球の管理者からその社会の存在は否定されることになります。

統一、統合というのはお互いの「理解」の後に訪れることはあり、そうであればその理解は自然なことです。

一方、善など片方の思想による統一や統合というのは相互の理解を欠いていますので地球の管理者から否定されます。又、形而上学や哲学による、一見すると「誰にでも適用可能な普遍的な考え」かのように見える思想で世界を統一する試みも「理解」を増やさないという点において地球の管理者から否定されます。統一理論は一見するとそれによって皆が納得できるかのように見えるかもしれませんが、それは「自由」を基本とする今の社会が違う思想に変わったことそう変わりはなく、目新しさはありますが、軸が違っているだけなわけです。

人々が理解を増やした結果として人類の全てが納得して自然な流れで思想が統一されるのであればそのような共通理解が起こるのはあり得ますが、それを思想として押しつけるのであれば地球の管理者から否定されます。何故なら押しつけの思想は総体として「理解」を増やさないからです。ですので、いくら立派そうに見える思想だとしても押しつけによる画一的な思想統一は宇宙の法則と反しているのです。そのような思想が広まったとして、総体として地球上の「理解」が増えるのならばその思想や統一は宇宙の管理者から肯定され、「理解」が増えないのならば宇宙の法則に沿っている、という、単純なお話です。

現状、自然にそのような統一がなされない以上、特定の思想に合わせれば世界は救われる、ということはありません。

あり得るとするならば、理解を増やすための土台として柔軟に考える、ということであれば地球の管理者から肯定されます。このことをうまく言葉で定義できるのであれば、「理解」を基準とした思想で地球が統一されることはあり得ますが、それは根本原理であるが故になかなか理解が進まないことかもしれません。人々は分かりやすい理論に飛びつくのであり、総体として「理解」を増やすという手間のかかる手順を避けがちであり、何かこれを理解すれば良いという単純なところに人々が落ち着くのであればその場所からはじき出されてしまうわけです。



中国の皇帝が良かれと思ってやったことは、理解から離れる方向だった

一つの例として、とある神様が中国の皇帝に生まれ変わり、世直しをしようとした時のお話があります。その時、あの世で神様が会議をして「どうしようか、困った。困った。どうにかならないか。」と、良い策もなく困り果てていました。

世の中は混乱し、貧困、不満、争いが絶えない状況でした。

そこで、他のとあるヨーロッパの国の国王あるいはローマ帝国の皇帝として成果を上げたことのある神様が手を挙げて、「それなら俺がやってやろうか」と立候補したのです。

そして生まれたわけですが、なかなか状況は難しく、そのような神様ですら手こずったのです。

皇帝の周囲にいる宦官たちはそれほど深い考えもなく、皇帝が言うことに「はい。その通りでございます」というばかり。皇帝は状況が良く見えなくなっていきました。時に、とても荒ぶれた口調と態度で進言してくる者もいましたが、そのどれが本当のことなのか見えなかったようです。

そして、とある時、「うむ。人々が幸せに暮らすには、このように、皆が統一した暮らしをすれば良い。」として、今で言う計画経済のようなものを計画しました。皇帝からすれば、そうすれば人々が物を奪い合うことなく平和に満ちて暮らせるだろうと思ったのです。

しかし、人々の反応は違いました。贅沢品や今まで食べていた嗜好品を得られなくなることに不満が増大したのです。皇帝はその反応に驚き、「そのようにすれば皆が幸せになれるのに、何がどうして不満なのだ」と思ったのです。

今から思えばローマ時代は単純な時代でした。人々は食事に苦労しなければそれで満足だったのです。ですから、人々に満遍なく食料を行き渡らせることができれば人々は大抵は満足しました。一方、それより時代の進んだ中国においては人々の要求はもっと多種多様であったわけです。

そのような時代背景の理解もそうなのですが、そもそも、根本として、人々の暮らしを統一しようという試みそのものが、宇宙の法則たる「理解」と反する行為だったということです。

実のところこの時の皇帝はその後、大規模な人民の反乱に遭い、殺されてしまいました。そして、殺された後、神様たちは「うーん。やっぱりあの○○ですら駄目だったか・・・。」と残念がりました。

そして、その神様はというと「私は、人民のことが理解できていなかった。しばらく下野しようと思う。一般人として転生して普通の生活をすることで、人々が何を求めているのか学びたい。」と言い、実際、そうしたのです。真面目な神様です。

それは最初は人民のことを学ぶ、という、文字通りのことでした。しかし、やがては根本原理たる宇宙の法則の「理解」に辿り着きます。「そうか。私は今まで、人民に好きにさせる自由が大切なのかと思って学んでいたが、それは表面的なことで、一番重要なのは人々が理解を増やすことができるかどうかである。よって、皇帝あるいは王の役割とは人々が学びを深めることができる社会の基盤を作ることなのだ」という確信を得たのです。

それは割と最近のことのようです。

神様がこの確信を得ることで国の支配の有り様も大きく変わる予兆があるわけです。



オリオン大戦の残党が見る夢

そのように、オリオン大戦の残党がここ地球においてライトワーカーごっこを行い、当時の内省をしているのです。

この世が夢だ、ということはよく語られます。そしてその時、スピリチュアルな人は傲慢にも「夢だから大した意味はなく、この世界の煩わしさに囚われず好きにすれば良くて、世界を救わなければならない」みたいに考え、それを喧伝しさえします。それは色々な人がいますから、それが正しい人もいます。

しかし、オリオン大戦の残党にとっての夢というのはそういうことではなく、「本当の人生は遙か彼方にあってこの現実は夢のようなものだが、この環境において学ぶという意味がある。世界を救わないといけないと思っているのは幻想であり、本当の救済とは自分たちの考えや行いが如何に間違っていたのかを学ぶことである。」というのが本意であり、このことが「原罪」を償うということでもあり、原罪を抱えて生きている人が過ちを学ぶまで苦しみが続く状況の背景でもあるわけです。

スピリチュアルでは、この世界が学びの場で学習に来ているのか、あるいは、そのような学びなどなくて遊びに来ているのか、という論争がよく起こります。これは実は両方が真実で両方の人が混じっていますので議論には意味がなく、人によっては学びに来ているし、人によっては遊びにきているだけのことなのです。ただし、学びに来た筈なのにそれを忘れて遊びに来たのだと思い込んでいる人が一定数いて、そのような人は目的を忘れてしまっているのです。

往々にして、本当に地球に遊びに来た人はスピリチュアルとか言わずに普通に人生を楽しみます。スピリチュアルを言っていて楽しみとか言っている人は本当は学びに来ていることの方が多いように思います。(これは個人的な主観です)

世界を救わないといけないかのように思っているのは遙か昔のオリオンの記憶においてその星系を救うことができなかった辛い記憶がトラウマになっているからであって、本当にこの世界を救う行動を試みるかもしれませんけど挫折するか「ごっこ」遊びに終わるのがせいぜいで、世界を救うこととその根幹の原因であるモチベーションは別であり、世界を救うと言いつつももう既に現実は遙か昔に終わっており、実は自分自身の昔のカルマを救うことがそのようなことを言っている人にとって第一なのです。

ですから、世界を救うとか自称ライトワークなどをしている人が急に自分の行動の根源たる部分に気付いたり、はたまた、自分の考え方が間違っていたが故に争いが起きていたことに自覚的になると急に自分の「世界を救う」行動のモチベーションが絶たれて目が覚める、ということになるのです。

この世界というのは夢でもあり現実でもあります。オリオンの記憶の中に生きている、自身の幻影の中に生きているという意味において夢でありますし、はたまた、本体の魂は宇宙あるいは高次にあってこの肉体としての人生は幻想であるという意味においても夢でありますけど、どちらの場合においても、「学び」という点においては夢ではなく意味があるのです。学んだ結果、自らが(二元性のある争いという)幻想の中に生きていたことに気が付いて、目が覚めるのです。

オリオンのカルマは膨大ですから、そのカルマたるオリオンの記憶を追体験あるいは分散して解消するために「イニシエーション」というもので記憶のオーラを他人に移し、(本来はオリオンのカルマを持たないのにも関わらず)一時的な仮想現実を生き始める人がいます。時に、その協力をして当時の二元性たる「善と悪」がどのようなものだったのかを体験するのも少しは勉強になることもあるかもしれません。ただし、万人が行う必要はないと思います。

元々オリオンのカルマを持っていた人が中心となり、周囲に「イニシエーション」で一時的な配役をし、役者が踊る。それが自称ライトワーカーによる二元性のある「善と悪」の戦いの現状かと思います。「ごっこ」と言いつつも本人たちは割と本気だったりしますから周囲から野暮なことは言わない方が良いと思います。特に害はないのであれば、ほおっておけば良いのです。当人たちは学びをしているのです。

そして、「世界を救う」など幻想だったことに気がつき、そのような「夢」を見ることを辞めれば活動から去って行きます。そして、オリオンに関わった多くの人が夢から覚めれば自称ライトワーカーの活動は自然に消滅してゆくことでしょう。

しかし、その時はまだ先のようです。

その時までは、ライトワーカーごっこをしている人たちを横目で見つつ観察するのも時には一興というものです。興ざめにならない程度に踊って頂ければそれは本人のみならず周囲にいる方にとっての学びにもなるわけです。


・・・そのような自称ライトワーカーを傍目に、本当のライトワークをしている人もいます。それは二元性を超えたもので、善と悪の戦いを超越しています。本当のライトワーカーが救うべき対象は全ての人類で、その中には自称ライトワーカーも含まれます。ですから、自称ライトワーカーが二元性の善悪を超えるための手助けもしているのです。本当のライトワーカーは全ての人類の中に入り込んで中から変える、ということをしています。外から批判したり善悪の戦いで悪を滅ぼす、というやり方は取りません。本当のライトワーカーは悪と思われるような組織や国或いは支配者の中に奥深く入り込んで、内側から変えていきます。自称ライトワーカーたちの中にもそのような本当のライトワーカーが紛れていて、中から変えようとしている場合もあります。ですから、自称ライトワーカーは自分たちの活動が肯定されているような勘違いをせずに二元性を超えた本当のワンネスに近づけるような努力が必要なのですが、自称ライトワーカーにはそのように自分たちが足りていないという認識が足りずに自分たちは「既に達成した」と傲慢にも思っていたりしますから、なかなか自称ライトワーカーが変わるのは難しいようです。むしろ一般人で社会に貢献している人の方がよほど素直で成長しやすいように思うのです。

オリオン大戦の残党が見る夢で自称ライトワーカーをしている人たちは、なかなか変わることのできない、厄介な存在のようです。そのように、自分たちが「善」であるという考えに固執して「支配者を愛と善の気持ちに変えることができれば世界が救われる」と信じて「悪を滅ぼす」ために活動しているのが自称ライトワーカーであり、それは現実の世界においては紛争の思想的背景になり、やもすれば(オリオン大戦のような)破滅的結果に繋がるのですが当人たちはそうは思わず、悪を滅ぼせば地球は救われると単純に信じているのです。そして、その思想はオリオン大戦の残党によるカルマによるものなのです。

それら全てが「夢」であり、現実には起こっていないことなのです。本当の戦いは遙か昔のことで、今起こってはいません。私たちの本当の自分というものも肉体にあるのではなく魂の記憶たる高次元の中にあり、そのような意味においても、この地球の現実は「夢」であるわけです。

「善と悪」「悪を滅ぼす」という二元性から離れ、「理解」という根本原理に辿り着くまで自称ライトワーカーごっこは続くでしょう。自称ライトワーカーは善を標榜し、「理解など、悪に対しては無意味」とさえ言い放ちます。そのような態度であるが故に、悪を理解するために自称ライトワーカーが闇堕ちするのです。そして、今まで悪と思っていたものを自らが経験し、ようやく二元性を超えた理解に達します。あるいは、そもそも善に固執しなければ闇堕ちもなく、二元性とは無縁でいられます。単純に「理解」という根本原理に基づけば良いのです。その時が来るまで、二元性のある自称ライトワーク活動は続くことでしょう。二元性のある「夢」を見続けるわけです。自称ライトワーカーは、この世が善と悪に分かれているという二元性の価値観の「夢」を見続けるのです。



悪は無理解と抑制から生まれた

善と悪とは対比構造であるとよく言われます。それは二元性を克服していない状況でもあり、善と言われるものが存在しているのは対比として悪がいる、というのは、そのような二元性の世界に生きているからです。その二元性の世界は克服して統合されたワンネスへと近づいた世界へと移行することができるわけですが、いわゆるワンネスになると(その前の段階での)善と悪は存在しない一方で、いわゆるワンネスに辿り着く前では善悪が存在するわけです。(究極のワンネスのことではなく相対的なワンネス、統合意識としてのワンネス)

そして、いわゆる善の有り様とは「自覚的な自他への節制」と「(自身が無自覚的に)他者への無理解」(無理解があるということにそもそも無自覚、無理解があるとすら考えていない、あるいは見ようとしない、目を背ける)であると言えます。

社会の有り様として、プレアデスの社会が例として適当のように思います。プレアデスの社会は統一が取れていて人々は礼儀正しく、節度ある振る舞いを取ることが求められています。それは社会として礼節が重んじられているということでもあり、一方、それに適さない人は不適合者として扱われます。地球と同じようにプレアデスにも罰を取り締まる組織があって、犯罪者は隔離されます。そのような社会においては、日本の状況より遙かに、統一された礼儀正しい態度を取るという見えない同調圧力がプレアデスの住民にはかかっているのです。それはプレアデス内部だけでなく、他の星系の住民と接触した時にも同様に発生し、他の文明に対する同調圧力および干渉が始まりました。初めは好意で行っていたかのように見えた干渉も、やがて、同調圧力および振る舞いにおける上下関係あるいはヒエラルキーのようなものへとなってゆき、プレアデスの方が上で、他の文明は劣っている、というような価値基準が広がったこともあったように思います。今でこそプレアデスは学びを深め、文明には多様なものがあるのでそれぞれを尊重すべきだし学びというものは一様ではないことを学習し、そのように振る舞うよう努力しています。その一環として惑星の非干渉の法則も理解されるべきで、地球が如何に愚かな戦争を繰り返していても宇宙からは(大規模な破滅的状況を除いては)干渉しないのです。

そのように、かつて他者あるいは他の文明への同調圧力がある状況で、今まで大人しくプレアデスの導きに従っていた他の文明の中に疑問の声が出るようになりました。「プレアデスはいいことを言っているが、実は、自分たちをコントロールして良いように使いたいだけなのではないか?」それはある程度は誤解でもありましたが、一方で、同調圧力というものは確かに存在しており、また、価値観においてもヒエラルキーによりプレアデス本星が最高、という暗黙の了解のようなものが当時はできていました。今もないとは言えません。

そして、そのように圧力をかけられていると、振る舞いや生活習慣を強要されてコントロールされてきたかのように思い違いをした惑星の住民たちは反旗を翻すのです。それはプレアデスからすれば野蛮な行為であり「悪」でした。プレアデスの「善」に対して、他の惑星が「悪」になったのです。

そして、その背景にはお互いの無理解があり、特にプレアデスの側からの他の星系の住民に対する無理解が多分にありました。プレアデスからすれば、自分たちと同じようにすれば全ての星系は幸せになると考えており、それは無理解によるものでもありましたし、又、同調圧力および価値観の押しつけでもありました。

善と悪という概念が生まれて二元性の論理が宇宙に広がるにはそれだけでなく多様な背景があるためにプレアデスがその全ての根本原因というわけではないのですが、少なくとも、他者への無理解という状況および同調圧力、それは節制という形で制度化され人々が学ぶべき常識とされたこともあり、その一方的な価値観に反発する文明もあったということです。

節制や道徳というのはかなりの部分で全ての文明に共通するものがあるとはいえ、意識の発達度合いによってその有り様は変わるわけです。それを、画一的な価値観で統一しようとしたことが間違いでした。一つの価値観というのは、意識の段階としても1つに固定されてしまうのです。それより低い意識段階の人は抑圧されて苦しいと思いますし、それより高い意識段階の人あるいはいるべき人は意識が上がっていかなくて天井が突っかかっているかのような抑圧を感じてしまうわけです。

他者への無理解、それは、文明の平均的な価値観に対して低すぎても理解できないし高すぎても理解できない、そのような状況であったと言えます。その構造は今も同じなのではないでしょうか。

そして、他者への無理解に対して、無理解が存在するということに無頓着でいて気付かぬまま他者に対して節制と称して同調圧力をかけた結果、同じ価値観の人はそれで安泰である一方で、異なる意識段階(それは上下というだけでなく軸の違った価値観をも含む)の人にとっては苦しい抑圧となったのです。

現在のスピリチュアルにおいても画一的で「こうすればよい」「これが良い価値観」「スピリチュアルならばこう考える筈」という同調圧力があり、それに反する人はスピリチュアルではない、とさえする風潮があります。そのような同調圧力こそがスピリチュアルおよびその根源たる宇宙のとある流派の人たちの根本問題であり、そのように、他者への無理解こそが分断を生み、同調圧力を発生させ、争いに発展することもあるのです。

では、どうしたらよいでしょうか。無理解というものは、理解できない状況というのは意識段階が違えば必ず発生しますから、本当の意味で理解することは完全には不可能であり、その前提に立った上で、「理解できないものがある、ということを前提にする」ことが必要のように思います。

実のところこの宇宙はワンネスでありますので自分が理解しなくても他の意識体が理解すればそれで良い、という面もあります。ですから、自分のカルマではないものに対してあれこれ口出しする必要もないのです。自分が関係するものはカルマで引き寄せられますし、自分の課題であれば関与して理解すれば良いのです。その時、他者に対して必ず無理解があることを前提にしさえすれば同調圧力や他者に対して節制を要求するということもなくなってゆくでしょう。

時にリソースの取り合いになったりして節制をお願いするというのは別のお話で、ここで言っているのは道徳的な観点からのお話です。リソースに限界があるのであればトレードオフが働きますが、制限のない思想的なお話においては各人の学びの自由があり、それを尊重すれば争いはなくなるのです。

そして、それこそが「善と悪」の二元論を克服することでもあります。

このように理解を基本にすれば「善が悪を滅ぼして統合する」というような荒っぽい乱暴な無理解により「善」が勝利するというようなオリオンのカルマから続く古典的なシナリオを描こうとする人も少なくなってゆくことでしょう。



カルマやトラウマによる二元性の争いとワンネス・統合

カルマが原因のトラウマへの対処として、二元性の分離をした上で争いをするのか或いはワンネスたる統合をするのかというアプローチおよび結果の違いがあります。

・カルマ → 行動あるいはトラウマ → エゴによる認知の歪み → 二元性の善悪に基づく争いの継続
・カルマ → 行動あるいはトラウマ → 高次の意識による認知 → 味わい、昇華する。ワンネスたる統合

カルマと言いましても普通の「行動」に結びつく温和なものが大半ではありますが、その一方で、トラウマをもたらす種類のものがあります。今世での過去の行動により深く眠ってしまったカルマが今世のうちに出てくればトラウマなどとして今世の辛い記憶として蘇りますが、それがいわゆる来世へと引き継がれた時にそれは原因不明の葛藤やトラウマとして顕現するのです。

そして、そのトラウマの原因たるカルマへの対処として、まず、二元性の争いの方を見ていきましょう。この場合、まずは分離が起こります。その原因に対して「私ではない」という初動たる認識から始まり、やがては、分離を引き起こし、ものによっては「悪なので成敗すべし」という結論へと至ります。そして、いつ終わるとも知れない争いと分離を繰り返します。時には自分の中での葛藤に終始するでしょうし、時には、その自己の感情やトラウマを周囲に投射して周囲に悪を見て、悪に対する(他人に対する)正義と自称する戦いを始めます。それは実際には心理学でいうところの投影あるいは投射というもので、本当の他者を見ているわけではなく、自分の内面の姿の投影として他人を見ているわけです。この場合、他人に悪を見るということは自分の中に悪があるということであり、実際には他人が悪ではないのにも関わらず悪と見出して戦いを繰り広げるのです。善と悪が存在し、自らは善の側であるので悪は成敗すべしという、分離の二元性における善の側の立場をとり続けるのです。時に自覚して自らが悪だと認知する人もいますが、それも立場が違うだけで同じ事です。分離により二元性の善悪が生まれて善と悪の争いが続きます。

一方、ワンネスたる統合によるカルマの対処としては、それは自分のものではないかもしれないけれどもそのカルマを感情も含めて感じつつ味わい、そして、昇華するのです。それで終わりです。簡単なものです。

トラウマやカルマに対して、どうしてこれほど異なるアプローチや努力の違いが出てくるのでしょうか。それはまず知識が足りないということ、そして、認知の不足です。

知識という点においては、スピリチュアルでなくても心理学を学べば投射あるいは投影という効果は学べますから、周囲に見ているものが必ずしも周囲そのものではない、ということはすぐにわかりそうなものです。ですがスピリチュアルな人というのは厄介で、そのように知識を入れるとエゴの抵抗およびエゴは巧妙に自分を言葉巧みに騙そうとしますから、そのような知識が入った瞬間にエゴの自己防衛反応が瞬時に働き、「私は分かっています。ですから、私はきちんと自己や周囲を見ることができています。」というように、自己欺瞞により真実を覆い隠してしまうのです。これはスピリチュアル初心者にありがちなことではありますが、気をつけていないといつの間にかこの罠に落ちることもありますので常に気をつけるくらいでもいいように思います。

そして、認知の不足に関しては、それはトラウマなどの葛藤がマインドの周囲に黒い雲のように覆い隠されてしまっている状態ということでもあり、そうなると、真実を見ることができないわけです。曇りの日に太陽を見ることができないように、真実というものがどこにあるのか見失ってしまいます。それが認知の不足ということでもあり、仏教では無知と言い、インドではアヴィディャー(Avidyā)とも言います。そのような状態では自らのエゴが本当の自分であるかのように振る舞っていますから、プライドを傷つけるようなことに関しては防御反応が働くわけです。

そのように、実際はとても簡単なことであるのにエゴがあるとカルマへの対処は難しくなり、他者へとその葛藤を投射することで善(自分)と悪(相手)が生まれ、善が悪を滅ぼして統合するという自称ライトワーカーのストーリーになり、争いが継続されます。

エゴをなくすというのは一見するとスピリチュアルなことのように思われるかもしれませんけど、実際には認知の歪みをなくすということであります。エゴがあると真実をありのままに見ることができませんから、スピリチュアルに限らず仕事においても支障が出たりします。一方、真実を見ることができればスピリチュアルだけでなく仕事も成果が上がります。そのように、一見するとスピリチュアルと仕事は無関係のように思えて実際はその必要とする能力というものは似通っているわけです。

ワンネスたる統合というとスピリチュアルかのように思われるかもしれませんが、要は真実を見るということでありますので、実は世間一般で必要とされる姿勢なわけです。

高次の認知というのもスピリチュアルだけのことのように見えるかもしれませんが、これまた本当に優秀な人はことごとく高次の認知を有しています。直感や思考力が早いということはそれは高次の認知が働いているということです。

ざっくばらんに言ってしまえば、頭がそれほど良くなくて認知能力が低い人が二元性の善悪とか勧善懲悪のような自称ライトワーカーのストーリーを真実だと信じ込むわけです。その一方、人生や社会とはそんな単純な善悪で片付けられないという思いに至って複雑なこの社会をありのままに理解しようともがいたり苦労して少しずつで良いので認知や知識を増やそうと思っている人こそがワンネスたる統合にやがて至るわけです。究極のワンネスというのはこの短い人生においては不可能ではあるにせよ、ワンネスに近づくように段階を超えていけるわけです。二元性の善悪の段階にいる人は、この成長の可能性を捨ててしまっているか、諦めてしまっているのです。

善悪の領域にいる自称ライトワーカーは、このようなワンネスのアプローチを時に嘲笑したり揶揄して見下したりします。その姿はとても子供っぽくて単純です。そして、時に自分の内なるエゴに対峙することを恐れて他者に対して敵対心をむき出しにします。自分はライトワークをしていると自称し、自分は悪を滅ぼす正義の味方であるとして、ライトワークで悪に立ち向かわない他者を嘲笑することさえあります。そして、このような思考が世界の紛争の思想的な支えになっていると言えます。

一方、この世の複雑さを受け入れた大人は人生や社会とは複雑だと理解し、お互いの立場を理解しようとします。それは統合ということでもありますしスピリチュアル的にいえばワンネスとも言います。それを一般社会での人生経験で学ぶこともあれば、スピリチュアルで学ぶこともある。そのくらいの違いしかないとも言えるわけです。



お互いに学ぶべき箇所

現状、この2者の見解が平行線を辿っており、これまた統合に至っていない、そのような状況でもあるように思います。実際は、自称ライトワーカーの行動力は見習うべきです。一方、理解とワンネスの立場も好ましいものです。今は自称ライトワーカーには理解が足りず、ワンネスの立場としては行動が足りないのです。それぞれどこか偏っていて、統合に至っていない、それが現在の状況かと思います。

ここまでわかればやるべきことは明白で、自称ライトワーカーは本当のライトワーカーになりたければワンネスを学んで実際にワンネスを経験するのです。そして、既にワンネスに至っている人は行動力を身につけます。

先日書きましたように、この地球が何度も地球の管理者にNOを突きつけられてリセットおよびやり直しを命じられている状況は、このあたりが鍵になって次の段階へと進む許可が得られるように思うのです。

ただ、その状況になるのはすぐには難しいように思われます。自称ライトワーカーたちはワンネス的な「理解」に重きを置きません。自称ライトワーカーは自分たちの教義を正しく学ぶことこそが「理解」だと考えており、敵を理解しようとはしていないようです。そして、「理解など生ぬるくニューエイジ的な空想であり、悪というものは絶対的に存在する。よって悪を滅ぼさなくてはならない」として強固にその理想を思い描いています。一方、ワンネスの側としては行動が甘いのは昔も今も変わらないようです。



葛藤を見出した時の二元性あるいはワンネスの解釈の違い

二元性の争いの状態にいる人と、ワンネス・統合のそれぞれの立場において、葛藤を見出した時の解釈の違いがあります。

二元性の争いの状態においては、葛藤とは悪そのものであり、切り離すべきものであり、悪は成敗する対象になります。誰かがトラウマあるいは過去の記憶によって乱暴な発言あるいは想念ですら発したとして、そのような人は悪であると判断されます。

一方、ワンネス・統合の立場においては基本的には調和ということではありますけど不和や葛藤というものも含めてワンネスなわけです。ここによく誤解があって、ワンネスであれば不和はないのだとか葛藤もないのだとか乱暴なことはないのだとか思われることがありますけど、ワンネスとは全てを内包したものであり、この世界がワンネスだとしたら既に今の状態がワンネスであり、現状のこの世界がワンネスそのものであるわけです。ですから、創造や維持や破壊も含めて全てがワンネスでありますから、二元性の世界をも含めてワンネスであり、トラウマや過去の記憶によって乱暴な発言あるいは想念を発することすらもワンネスなわけです。

二元性の世界においては、誰かが善であるか悪であるのかは、その人が内包している質によって判断されます。乱暴な質がなければ善であり、乱暴ならば悪という単純な論理です。そして、一見すると善であるかのように思えていた人であっても、とある時に瞬時に乱暴な発言あるいは想念を発しようものなら悪とみなされて除外されてしまいます。善というのがとても狭い範囲の解釈に留まっており、よって、善の自称ライトワーカーのような人たちは周囲の人から悪とみなされないように日頃気をつけていて緊張感が漂っています。安心するところがないのです。そして、悪とみなされる気持ちがやってきた時の対処として、自らの中にある葛藤を見ようとしないあるいは切り離して捨ててしまうことにより自らの善を保とうとしているのです。分離により自らの状態を善に保とうと常日頃努力を続けているのが二元性の世界における善と悪のスピリチュアルです。この種の人は時々「善が強まれば、悪も強まる」みたいなことを言いますけど、それは、分離が強まっているためにそうなるわけで、自業自得なわけです。宇宙の法則は理解と統合を求めてその方向に動きますけど、分離をして善の立場のみにいようとすれば宇宙の強力な力によって悪(とその人がみなしているもの)と統合する圧力が高まります。よって本人にしてみれば「悪が強まる」みたいに感じられるかもしれませんけど、それは当人の意識が分離がそれだけ強く分離されているということなのです。バランスを崩しているのです。そして、このような意識こそが世界に紛争を起こす引き金となり、思想的な支えとなってこの世界から争いがなくならない状況を作っています。葛藤が現れれば分離して悪とみなし、その悪を成敗してもよい、むしろ成敗すべき、という思想的背景があってこの世界の紛争は正当化されているのです。

一方、ワンネス・統合の立場においては話は簡単です。よく見て、感情を味わって、そして、統合されます。それで終わりです。自らあるいは誰かの中に葛藤や時に殺意すら見出したとしてもそれは同様で、それは悪といえばそうですけど単純な善悪論で切り離そうとはせず、味わって統合します。とは言いましても自らの手に負えないほどの強いオーラあるいは意識体というのはあって未熟な立場なへなちょこではやられてしまいますけど、原則としてはそうなのです。理解できないものがあってもそれは立場の違いや解釈の違い、あるいは、そもそも役割が違うのだから理解する必要がないと悟り、自らの理解の範疇を少しづつ自らの解釈で進めることをします。そしていつかは理解できる日が来るでしょうし、とは言いましても今世の中では理解できないかもしれません。ですがそれはそれで構わないのです。善と悪という単純な解釈ではなく、ただ単に、まだ理解できない、とだけ解釈します。そして、他人の自由をなるべく保障します。他人を尊重します。何故なら全てはワンネスであり全ての存在は自分自身だからです。それぞれの立場で分離してるからこそ異なった理解を深めることができるわけです。ですから、他人のことが理解できないというのはむしろ恩恵でもあるわけです。

ちなみに、宇宙の法則の理解を進めて運用している時に「分散して理解を深めよう」と宇宙の意識が思い立ったことがあるそうです。そして、同じ疑問を沢山の意識に分散する、ということを行いました。と言いますから今もそれは起こっています。そのうちの一つが「葛藤の原因」であり、それ故に、人々の中には自らのものではない葛藤の原因が沢山眠っているとのことです。ですから、宇宙の意図としてはそれを理解することなわけですが、多くの人はそれに拒絶反応を起こしているようです。はたまた、それを分離して悪とみなすような人もいます。ですが、宇宙の法則が「理解」である以上、理解に辿り着かない行動は回り道であるとみなされます。やがていつかは理解に辿り着くものであるとはいえ、遠回りであるとみなされます。そのように、分離して二元性の善悪として解釈するのは遠回りなわけです。一方、ワンネスとして感情を味わって昇華するとすぐにその葛藤は解消されます。それは理解という方向に沿っているからです。

とは言いましてもその葛藤の大きさに応じて時間を要するものもあります。それはオーラの強力さにも比例して、強いオーラの解消には時間がかかりますが、それでも、原則としては同じなわけです。



階層的に連なる心の成長の段階とそれぞれの教師

▪️心の成長の段階
1. 獣、受動的な存在
2. 自我が生まれる。プライド、自尊心
3. 欲望、目に見える欲望、餓鬼、修羅、戦い
4. 何が正しいのかを知る。ダルマ。正義、善と悪、二元性の世界、光と闇、二元性の戦い、自称ライトワーカーの光の側の戦い、闇を討ち滅ぼす正義の光としての戦い、闇の戦い、破壊の美、破壊を善とする思想、破壊を正義とする思想、お互いに自分が光で相手が闇だと思っている二元性、幻想の世界、マーヤーとしての非真実の世界、あたかも存在する。思考、マインドの世界。
5. ワンネスの世界、善と悪の超越、二元性の克服、戦いの克服、光と闇の二元性の克服、本当の世界、本当の自分、実在の世界、実際の存在、本質的な存在、非物質の実在、意識

世界とは自分の心を映す鏡であり、人によって世界観が異なります。獣にとってては世界は獣の世界ですし、食べ物に飢えた餓鬼にとっては世界は食糧の貯蔵庫あるいは食料がない砂漠のように映るでしょうし、争いの連鎖の中にいる修羅は世界を闘争の連鎖だと見たり、はたまた、秩序をもたらす光の側だと思っている人は世界を二元性を持った分離した善と悪の世界として見るでしょう。そして、ワンネスの人は全てを統合する唯一の満ちた変わることのない意識が貫いて存在しているとして世界を見ます。

これらそれぞれの価値観および人生観があり、その意識状態に応じた世界を見て人は生活していると言えます。

▪️獣、受動的な存在
人間になる前の獣。人の心を持たない生き物。それは人間の思考の投射や保持というものをするため、人間の近くにいると人間が発した思考を受けて一時的に獣が人間と同じように感じたり思考っぽい感情を保持することがあります。それは自我意識の目覚めの前の段階であり、意識がとても弱い状態で獣は生きていると言えます。それゆえにこの状態では「自我」が存在しません。その獣は人間の思考のオーラを反映しますから、近くに暴力的な人がいれば獣は暴力的になり、穏やかな人の近くにいればその人の心を反映して獣も大人しくなります。そのように、この段階においては自我が存在せず、周囲のオーラに影響されて生きていると言えます。また、その影響範囲は動物の種類によっても異なりますが概ねその感受能力は弱いことが多いです。人間の近くにいることで人間の思考や感情を学び、やがては自我を持った生物に生まれ変わることがあります。

▪️自我を持った獣 = 初歩的な人間
獣の魂が成長し、初歩的な人間になります・・・ というと語弊がありますが、そのような人はこの地球上にはそれほど多く存在していないように思えます。いわゆる知恵遅れや知能指数が著しく低い人がこれに相当します。認知能力に欠けており、思考や行動に一貫性がなく、正常な思考をすることができません。

▪️自我が拡大した傲慢な人間
初歩的な人間が安定し、思考するようになると自我が生まれます。それにより「自分」という認識が生まれ、所有欲も生まれます。あらゆる欲望がそこから派生的に発生します。

▪️「すべきこと」と「すべきではないこと」を認知する人間、二元論の人
それは道徳のようなもので、世界はこうあるべしという秩序を生み出します。その秩序に沿うことを時に「善」と言い、沿わないことを「悪」と呼ぶこともあります。それは二元性の世界です。自身が正しいと認識したことに対しては正しくて善であり光であり、そうでないものは間違っていて悪であり闇であると認識します。その認知を正当化するために様々な理屈を生み出しますが、そのいずれもが二元論の立場に留まっています。この段階では「全てが一つ」というワンネスのことは理解できません。世界の3大原則(あるいは二大原則)である創造・維持・破壊(あるいは創造と破壊、創造と維持、維持と破壊など)のうちいずれかを重視し、他を軽視あるいは敵視します。例えば「維持」のみが「善」であるとみなして「破壊」を「悪」とみなします。いずれかの原理に傾倒し、他を軽視あるいは良くないものとして排除する傾向があります。悪を打ち滅ぼすための善の戦いは正当化されると信じています。未だ自我(エゴ)を克服できていません(何故ならワンネスに達していないからです)。善の側を拡大することが愛だと思っています(この段階の愛ではあるが究極の愛ではない)。未だ傲慢なところがあります。

▪️ワンネスの人、二元論を克服した人
全ての人に共通した意識が存在していることを理解および認識しています。世界の有り様とは創造・破壊・維持の連鎖であり細かく見れば見るほど「変わらないものはない」ことである「無常」を理解しています。善と悪というような二元論の立場を取りません。理解が重要であることを知っています。悪を滅ぼすための善の戦いというようなものに同意しません。全ての存在はワンネスたる大元の存在・意識が「知る」ために分かれたものであることを知っています。この宇宙に何も無駄なものはないことを知っています。究極の宇宙の一元としてのワンネスには未だ遠く及ばないことを理解しています。それでも、ある程度のワンネスを得ることでその理屈が階層的に宇宙のワンネスへと繋がっていることを知っています。

このように、それぞれの段階があります。そして、講師とは、それぞれの存在の少し先の段階にいる人のことなのです。

・獣の講師は、初歩的な人間あるいはそれ以上
・初歩的な人間(自我を持った獣)の講師は、自我が拡大した人間あるいはそれ以上
・自我が拡大した傲慢な人間の講師は、二元論の人あるいはそれ以上
・二元論の人の講師はワンネスの人です

あまりにも離れていると言っていることが理解できずに成長に支障をきたします。講師とは言っても、講師の側も弟子や生徒から学ぶことがあるくらいの関係がちょうど良いということです。自分より少し上くらいの人が講師になるのが理想です。

とは言いましても難しいのが、自我が芽生え始めるとすぐに「自分は全てを知っている」という傲慢さに陥りがちなのです。よって、例えば二元論の人はワンネスを理解できないどころか「ワンネスなど存在しない」と言ったり「敵を滅ぼすのは正当化される」というように自分の考えに固執します。それが自称ライトワーカーのようなスピリチュアルを多少はかじったような人であっても同様で、勉強することで更に自分の考えを強固にして「善のための悪への戦いは必要、悪は滅ぼさなければならない」と信じていたします。

この辺りは、階層を上がってみないとわからないことがあるのです。例えばワンネスは実際に自分がワンネスになってみないとワンネスのことを理解できません。一応は理屈で色々と説明ではできますが、直感は知識よりも偉大なわけで、知識を得たところで更に直感でそれを裏付けなければその知識は本物にはならないわけです。

理想的には次の段階の人が講師になるべきではあるのですが、実際には、同じ階層内で先に学んだ人を講師としていて同じ階層の知識を深め合ってそれで満足している場合が多いように思います。であれば、二元論の人が同じ二元論の先達者から学んだとしてもワンネスに辿り着かないのも納得と言えるものです。

この辺り、むしろ「自分が理解できない」ことを教えている人から学び、その内容を鵜呑みにするのではなくそれが正しいかどうか自分で検証する立場がそれぞれの個人に必要のように思います。



ワンネスの階梯では個(私)がなくなる恐怖を感じる

それを人によっては「悪」と呼びます。ワンネスを恐怖するのです。ワンネスになることで「自分(私)」が無くなってしまうという恐怖を感じるのです。そして、その恐怖を他者に転写・投射・投影して「悪」を感じるのです。ありもしない「悪」を他者の中に感じてしまうのです。

そして、ワンネスを避けることに非常な努力を払い、「悪は滅ぼさなくてはならない」という認知の歪みを発生させ、実のところそれはワンネスによって「自分」がなくなってしまうという恐怖を他者に転写・投射・投影して、ワンネスに至ることを恐怖している自分自身が他者に対して「悪」という幻想を抱き、自己正当化するために「正義あるいは善のために悪を滅ぼす、悪を成敗する、悪と戦う」という勝手な論理を組み立てる人がこの世の中には存在しているのです。

それは、エゴ(幻想の自分)を守るための論理の鎧であり、その鎧を守るためにあれこれと理屈をこねて自己正当化しているのです。そのような、エゴがあるのにも関わらず自分のエゴを理屈でもって覆い隠して自己正当化し、それで自分はというと自称ライトワーカーとして悪と戦っている、と自己主張してその戦いに参加しない他者は間違っていると言ったり、地球が滅ぶのを自分たちは救っているのだと主張しています。実のところ、それは自己のエゴを覆い隠すための都合の良い論理でしかないのです。

やがてそのエゴは肥大化し、他者から指摘されることを恐れ、指摘あるいは本当のことが明るみに出る、はたまた、それに気付いてしまいそうな状況になると極端な拒否反応と叫び、雄叫び、ヒステリーな態度になって他者を糾弾、自己正当化のために悪魔(デーモン)を持ち出したりして、とにかく自分のエゴを守ることに必死なのです。当人はというと「光が強まるほど闇も強まる」というようなどこかで聞いたような昔から使い古された文言を言ったりします。実のところ、これはというとエゴの抵抗のことなのです。エゴというものは本当は存在していない幻想による「私」という概念ですが、(エゴが残っている人が言っているところの)「光が強まる」というのは実はエゴが強まるということなのです。そして、「闇も強まる」と言っているのは、本当の私であるこの世のワンネスたる意識の源が近づいてきていることに対してエゴが恐怖をしているのです。エゴは本当は存在していないがために、ワンネスを知ってしまうとエゴがなくなってしまうので、それで、エゴが恐怖し、エゴが自分を守るために「闇も強まる」というような都合の良い論理を組み立てているだけなのです。

そのように、光と闇で物事を語る人は二元性の世界に生きており、ワンネスに到達していないのです。それどころか、そのような自称ライトワーカーはワンネスというもの自体を否定したり、あるいは不思議な論理でワンネスを回避しようとします。例えば「ワンネスというのは善も悪も内包しているので危険」というようにワンネスを避けるべきものとして捉えています。

さて、ここまでエゴの鉄壁の守りとワンネスの関係を垣間見ましたが、それでは、どのようにしてエゴを克服してワンネスに至ることができるかを解説致しましょう。とは言いましてもそれはとても簡単なことでもあり、人によっては(簡単だからこそ)とても難しいことだったりします。

その鍵は「ワンネスに飛び込む」ことです。そうすればエゴは消え去ります。エゴは恐怖するでしょうが、それは最初だけのことです。エゴが消え去った後は平穏な世界に至ります。そこには善も悪もありません。たったそれだけのことです。そして、ワンネスに至った後にこの世界を見て、それで秩序を語ることもできます。その時の秩序はワンネスに至る前とは別物です。ワンネスに至る前は二元性による善と悪の世界観であり、誰かが正しくて誰かが悪い、という価値観に基づいています。一方、ワンネスに至った後は調和のみがあります。良いも悪いも内包した調和が基準になるわけです。かといって罰のようなものがないわけではなくて状況を整理するための大岡裁きのようなものは行われます。個をベースとした西洋の価値観においては誰かが正しくて誰かが悪い、という二元性を帯びます。一方、ワンネスを基準とした価値観においてはその原因にそこまで重きをおかず、原因も確かめられますが、未来にどのようにしたら良いのか、というところに焦点が当てられます。罰にしても将来を見据えたものになります。いたずらに保障を持ち出すことはなく、状況に応じて相応の行動が求められるくらいです。それが人にとってはとてつもない負担だったりしますが、その義務を果たすことで人として成長し、調和に至るのです。そこには二元論としての善と悪あるいは悪は滅ぼすべきといった価値観は存在しないのです。

エゴがある状況でエゴを隠し、様々な理屈をこねくり回して二元性の善と悪を正当化しているのが自称ライトワーカーやカルト、そして様々な二元性のある宗教の状況であると言えます。

ワンネスに至るというのは、そのエゴが(ワンネスに至る前に)恐怖するのです。そして、飛び込んでしまえば楽になるのに、エゴがいつまでも抵抗しているのです。たったそれだけのことが、多くの人にとっては難しいのです。簡単なことができないのです。そして二元性の論理に逃げ込み、善と悪の戦いが継続します。悪を滅ぼすという単純なストーリーが自称ライトワーカーたちによって正当化され、ワンネスが卑下されるのです。

階梯として、以下のような段階を経ます。
・個としての自立
・エゴ(あたかも存在している私、自我)の成長
・エゴの克服、エゴがなくなってしまうことに対する恐怖
・ワンネス(の各段階)

ワンネスは一回で全てが達成されるわけではなく、各段階にて少しづつエゴの克服がなされ、恐怖を感じたり、はたまた感情的葛藤あるいは感情の爆発、涙や各種を伴う感情を伴うこともあり、そうして少しずつワンネスが深まっていきます。

この自然な過程を避けてエゴを守り、光と闇のストーリーに逃げることでエゴが自己正当化するストーリーを描いている人が一定数いるわけです。ワンネスに至れば光も闇もなくなり統合されたワンネスになります。段階を通じてそれは深まっていきます。そうなれば、光が闇を滅ぼすというストーリーは出てこないのです。ワンネスが光も闇も超越するということでもありますが、それは別に光を支配するとか闇を支配するとかいうことではなくて、光に勝つということでもなくて、闇に買つということでもなくて、光と闇の二元性の世界はありのままにこの世の中に存在するけれども、それを超越したワンネスがそれら二元性の世界の中にも貫いているということなわけです。ですから、ワンネスに至ったかと言ってこの世界の二元性の善と悪の戦いが何かすぐに変わるということはないのですが、それに対する理解が変化し、そして、その二元性の戦いに参加することもなくなります。二元性の戦いは結局はどちらかが正義でどちらかが悪になってしまい、争いの連鎖が終わることはありません。そのような二元性すらも貫いているワンネスがあって、そのワンネスを理解した上でこの二元性の世界を見てみれば、全く違った理解が生じるのです。そして、そのワンネスの理解こそがこの世界が平和になる鍵なのです。

この世界の平和は二元性に基づく善と悪の戦いで善が悪に勝利することによって達成されるのではありません。二元性の世界は善であっても悪であってもエゴが自己主張しているという点に関しては同じであり、そこに調和があるように見えても「悪を滅ぼす」という観点がある以上、恒久的な平和はやってこないのです。

ワンネスだけがこの世界を平和に導く鍵です。そして、ワンネスに至る前にエゴが恐怖を感じて「悪」のように見えてしまうというエゴの抵抗を乗り越えることこそがワンネスに至る鍵なのです。



二元性の克服とはバランスを取ることではない

これはよくある誤解です。

例えば「善と悪のバランスを取ること」「他者とのバランスを取ること」などなど、バランスで二元性の克服ができると思い違いをしているのです。こういうとまた誤解する人がいて、「そうか。片方だけで良いのか」と思い違いをしてしまう人もおられるかもしれません。これまた極端な解釈です。

二元性の克服とは、二元性に惑わされなくなることです。二元性がその二元性と同じ次元で消え去るわけではなく、二元性を超えた次元での共通した一つ上の次元に気がつくことです。それはワンネスということです。二元性の克服とは、片側であっても、あるいは、偏っていてもその奥底に通底している共通したワンネスが存在していることに気付くことです。ですから、バランスを取ることではないのです。偏っていてもワンネスなのです。片方だけでもワンネスなのです。いわゆる善であってもワンネスですし、いわゆる悪であってもワンネスなのです。

同じ次元で同一になることではありません。例えば、水と油を混ぜて同じにしようと努力することではありません。水と油は混じりませんが、水も油も同じだと気がつく事がワンネスです。水は水ですし油は油です。しかしワンネスなのです。これは、油と水の割合は問題ではありません。50%と50%、はたまた10%と90%の割合であったとしても、どちらの場合もワンネスなのです。ですから、善が10%で悪が90%であってもそれはワンネスですし、逆であってもそうなのです。ワンネスというのはこの世界の「あたかも存在している世界(ヨーガでいうマーヤー)」の有り様とは無関係にワンネスであり続けます。

仏教やヨーガでいうところの「無知(Avidyā、アヴィディヤ)」な人はこの世の現れが真実であるかのように語り、二元性の世界に生きています。一方、聖者あるいは聖典の知識を持っている人はこの世の二元性を超えることができます。

この時、一体何が本当のワンネスでそうでない見せかけのワンネスもあるということを理解しておくことは重要です。

見せかけのワンネスは、二元性の世界に生きていながら人の魂の永遠性を語ったりします。それは一貫していない理解であり本当のことをわかっておらず、二元性の世界に生きながら都合良く永遠性を理解している中途半端なスピリチュアルがこの世界には多く存在しています。例えば、「人の魂は永遠で死ぬことがない」と言っているカルトあるいは自称ライトワーカーがいたとして、その同じ人が善と悪の二元性の世界に生きていた「悪を滅ぼして善が勝つ」と言う争いの世界に生きています。

実のところ、本当の理解というのは一貫していて、二元性を本当に超えることができたらそれはワンネスでありこの宇宙意識と繋がるということになるのです。しかし、本当は二元性を超えていないからこそ、二元性を保持していつつも都合良く「人の魂は永遠」ということを語ったりします。それは本当には分かっていない、ということです。

この世界は幻影(マーヤー)であり、マーヤーの世界においては二元性が存在します。それは善悪など各種の2面性の属性を持ちます。それがこの世界であり、いわゆる物質界です。マーヤーはヨーガ的には3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の属性を持ち、それぞれ活性あるいは不活性の状態にあります。それはヨーガ的な肉体あるいはスピリチュアルな体でいうところのカーラナ(コーザル、原因)体までを指します。マーヤーとは物質で出来ています。その根本はと言うとヨーガでいうところのプラクルティ(物質)です。物質があるからこそ二元性の側面があるのです。

一方、この宇宙に普遍的に存在していて変わることのないもの、それがヨーガでいうところのアートマンあるいはブラフマンであり、それは意識であり、不変のものであり、よって、二元性を超えたものです。二元性を超えた意識だからこそ永遠の意識であり変わることなく普遍的で満ちているのです。いわゆる宇宙意識です。

と、いうことですから、宇宙意識に達したら二元性を超えるのが当然なのです。善と悪というような二元性の意識で生きているのは宇宙意識に達して異ない状態ということです。それは実に明白です。

誰か、例えば自称ライトワーカーが善と悪の価値観を持ち出してきて「善が悪を成敗する」というようなことを言うのであれば、それは宇宙意識に達していないということなのです。しかし、そのような人であってもどこかで学んだのか本を読んだのか「自分の本質は普遍的で変わることがなく、生まれたこともなければ死ぬこともない永遠の存在」ということを何故か知識では知っています。しかしながら、本当のところの意味をわかっていないのです。本当に宇宙意識に達したのであれば二元性の「善と悪」というようなものも瞬時に消え失せてしまいます。ですから、善と悪の価値観の世界で生きていて「善が悪を滅ぼす、正義が勝つ」というようなことを言っている時点で、永遠性に対する知識はそれなりにあろうとも、本当のところでそのことを分かってはいないのです。

真実というのものはそう幾つもありません。普遍的だからこそ真実なのです。

それはスピリチュアルにおいては単純で、宇宙意識(いわゆるワンネス)に達したら二元性の意識(それはエゴとも言う)は消え去るのです。

二元性の意識で善と悪の価値観を持っていたのは宇宙意識の方ではなくて個としてのエゴ(自我、ヨーガでいうところのジーヴァ)の方です。そのことに宇宙意識のワンネスに達した時点で気がつくことができるのです。それは普遍的なお話であり、達すれば誰でもそれに気がつくのです。

そして、宇宙意識に達していない人だけが二元論の善と悪の価値観で生き、その段階においてはどこかネガティブで、スピリチュアルも「技」「知識」に頼り、直接的に宇宙意識を知るというよりは理屈の面において多種多様の自己満足を繰り返すのです。それは論理によってエゴを覆い隠して自尊心を高めることになり、真実を露わにしてくれるような人が周囲に現れた途端に拒否反応を示してヒステリーになり、自己のヒステリーの責任を他者に転嫁して自分のエゴを守るという行動に出るのです。そのように、二元性の世界に生きているのにも関わらず自分は既に真実に達していると思い込んでいる人はかなり厄介で、ある種のカルトの神秘性と魔術のようなファンタジーのような世界観を醸し出します。術を使って現実を変えようとするものの、その意識は限定的で、真実に至っていないのです。しかし多くの人はその真実の姿を見誤り、真実を知っているかのように思い込み、カルトの教祖のように崇められることになります。その立場を傷つけるような人がいたら異端者として排除します。これが二元性の世界で真実を知っていると自称して教祖のようになっている人の特徴です。

二元性の世界にはバランスというものがあります。一方、本当のワンネスの世界には(バランスではなく)あるべき姿だけがあります。そもそも制限がないのですから「端」もなく、バランスのとりようがないのです。二元性の限定された世界にしかバランスという概念は存在しません。ワンネスの世界は無秩序ではなくあるべき姿としての(いわゆる)ダルマ(この世界の法則)が存在していて、それを知っている人が本当の賢者と呼ばれます。

二元性を克服して宇宙意識に達すると、その意識の深さに応じて英智がやってきます。その影響範囲は最初は小さく,少しずつ広がっていきます。最初は宇宙意識とは言っても非常に限られた範囲のものが、やがて広がっていきます。それはまるで、秋の草原で火が広がっていくかのようなものとも比喩されます。そのくらい自然に育つものです。とは言いましても、意識が深まるには相応の時間が必要です。

ワンネスに達成していない状態で二元性の世界にいると、何か最終的な結論を求めることになります。それが例えば「善と悪」だったり形而上学だったり、究極的とも思える「単純」なストーリーを求めるのです。その1つが「バランスを取る」というような二元性の考え方です。

仏教においても中論とか「中心軸でバランスを取って」みたいなお話がありますけど、これも、二元性の世界での解釈であるように個人的には思えます。ブッダの意識がそのような二元性に限定されたものであるとはとても思えません。ブッダの意識は限りのない意識でありますから「端」があることを前提とした「中間」というようなものではなく、もっと広い限りない心がブッダの心であるとすればそのような「中間」というような概念でブッダの心を矮小化するのはブッダを誤解することにもなるかもしれません。

善と悪のバランスもそうですし、善で悪を成敗あるいは滅ぼす、という考え方にしても、はたまた、他者とのバランスを取る、というようなお話にしても、確かに傍目から見てそのようになることは多々あるとして、実際の解釈は少し的を外しているように思うのです。



ワンネスを対象化して理解しないこと

希に学者や大学でインド哲学等を勉強した人で、ワンネスや「全体」を学問的に「対象化」して理解したつもりになっている人が散見されます。それらの人々の特徴としては、何やら時にケラケラと笑いながら「・・・そんなことをせずとも、理解できる」と言って、自分たちがインド哲学やら何やらを理解していると自信有り気に自称するのです。その説明を聞くと確かに理屈としては「全体」のことを語っていて何やらそれっぽくも聞こえるのですが、それは、対象化された理解なのです。

そこで語られているワンネスやら「全体」の知識とは文字通り「全体」なわけですから、対象化した時点でワンネスや全体ではなくなってしまうのです。しかし、学問でインド哲学やらを勉強した人は、そのように対象化された「全体」の知識で自分たちが「理解した」と自称しているのです。それは、インド哲学で言っているところの本当の「理解」とは程遠いものです。そういった知識も必要ですが、対象化した理解とは初歩的な段階で現れるもので、まだ始まりに過ぎません。それなのに、学者や大学で勉強した人は自分たちのことを「理解した」と強弁し、時に「理解できている自分のことを理解できない貴方は頭が悪い」ことを表現および認知を押しつけるためにケラケラと笑ってみせるのです。本当に理解したのであれば認知を押しつける必要もないのでそのようなケラケラとした態度にはならない筈ですが、何故か、学問の場で学んだ多くの人に共通してそのようにケラケラした態度が散見されるのです。これはおそらくは日本の大学や学問の分野で頭による理解をした人がそのような集合意識を形成しているのだと思われます。これらの分野はそれほど専門家の人数も多くありませんから、同じような態度が伝染しているように思われるのです。

一方、実践者あるいは宗教者はそのような「頭」での理解をした後に、「では、本当にワンネスというのはどういうことなのだろうか」と探求を続けます。学者や大学で勉強した人はそこまで行き着かないか、あるいは、頭で理解しただけで理解したと思い込んでいるのです。そのように、実践者と学者の間ではかなりの理解の隔たりがあるのですが、それでも、学者や研究者はエゴが強いですから「自分たちは理解している」と強弁し、時にそれを押し通すためにケラケラと笑って他者を見下したりしながら実践者のことを「そんなことをしないでも理解できる」と見下したり実践者の足を引っ張ったりするのです。

はたまた、インドで勉強してきた人すらも同様の態度である場合があります。インド哲学を学んだとして、その初歩的な理解を得たところで止まっているのですが当人たちは理解したと思い込んでいるのです。インドの古い物語に、賢者から真実の知識を教えてもらったデーヴァ(神様)とアシュラ(悪魔)がそれぞれ理解をして、デーヴァはというと理解したことが本当に真実なのだろうかと自己研鑽を続けてやがて本当の知識に辿り着いた一方で、アシュラの方はというとその知識を完全に理解したと思い込んで真実の知識に辿り着かなかった、という割と有名なお話があります。そのようなことが現実でも普通に度々起こっているのです。

そのように多少かじった人ですら惑わされる状況ですから、精神的修行の分野に自信がない状態でそこらの研究者や学者あるいは中途半端な修行者と話すのは時に有害で、関わったところで「そんなことをしなくても理解できる」と心を折られてしまって精神修行が滞ってしまうことがあるのです。それはヨーガやインド哲学あるいは何でも良いですがいかなるものにもあてはまります。そのようなこともあり、スピリチュアルな分野では「秘密にする」ということがよく行われてきました。スピリチュアルを始めたばかりの人は特に、ある程度の確信を得るまでは心が弱く、様々な誘惑や障害に負けてしまうことがあります。ですから、自分がやっていることを他人に話さない、あるいは、信頼できる師匠にのみ話をする、ということが伝統的に行われてきたのです。そのように、精神修行とはとても精妙で壊れやすいものなのです。まだ確信がないうちに上のように学者にケラケラ笑われて強弁されたら数年単位で停滞するかもしれないのです。

本当にワンネスや全体を理解しているのであれば他者もそのワンネスや全体の一部であることを理解している筈です。他者に対して足を引っ張るような態度を取れるのは、ワンネスの意識に到達しておらず、あくまでも理屈の上で構造的にワンネスという概念があると理解しているだけなのです。

一方、修行者はやがて本当のワンネスの意識に辿り着きます。そのような意識というものは絶対的に存在しています。そのために瞑想をしたり様々な修行を行うのです。

本当にワンネスを知っていて近道を知っている人もいるでしょう。しかしそのような人は希です。近道を知っていてケラケラと笑って真実を教えてくれる人もいるにはいますが、ほとんどいないと言って良いと思います。大抵は、自分の知識に慢心して真実に至ったと思い違いをしているのです。

そのことを分かった上で、ある程度の抵抗やミスリードがあるかもしれないという前提の上で他者に聞くためにはそれなりに自分の方に判断力がないと惑わされてしまいます。多少の進歩の後で他者の見解を聞くことはためにはなるでしょうが、信頼できる先生がいなければ色々な人に聞いたところで迷ってしまうだけかと思われます。

そして、とても誤解されている点が、「理解」という言葉です。一般的に学問や研究者の言う理解とは「対象」についての理解です。しかし、ヨーガやインド哲学でいう「理解」とはワンネスの質の1つなのです。ですから、そのような構造および構成になっているということを理解するということは、ワンネスというのは理解そのものであるということを理解することなのです。それは理解といいつつも、感じることでもあり、意識そのものが理解の質そのものであることを体感的に直感的に実感かつ理解することなわけです。それを全て理解という一言で言うこともできますが、学者や研究者が言うところの相対化された理解とは全く異なるものなのです。

表現として間接的知識(ニャーナ、あるいはパロークシャ・ニャーナ)と直接的知識(ヴィッニャーナ、アパロークシャ・ニャーナ)という言い方があります。学問で学ぶのが間接的知識で、直接的に真理を知る(=ワンネスを知る)ことが直接的意識であるわけです。これらのうち、一般的には学者や研究者は間接的知識を得ることで「知識を得た」と言うわけですが、本当に必要なのは直接的知識の方なわけです。間接的知識は対象化できますが、直接的知識というのは対象化できないものです。よって、西洋の論理的思考の分析手法は往々にして対象化を伴いますので間接的知識をベースにした学問的な分析となり、ワンネスを直接的に知ることとは相性が悪いのです。むしろ学問など学ばずに直接的にその知識に飛び込む方がよほど真理に近づける場合も多々あります。

ワンネスの意識というのは、ワンネスそれ自体が意識ということでもあります。満ちていて永遠でなくなることのない意識、それがワンネスです。その意識そのものが理解でもあるわけです。意識がワンネスであり、ワンネスが理解そのものでもあるわけです。ワンネスを対象化してワンネスを理解するということではありません。対象化した時点でそれはワンネスではなくなってしまいます。ワンネスそのものの質の1つに理解というものがある、ということです。と言いましてもそれはワンネスでありますから質の1つという言い方も語弊があって、確かに質の1つという見方もできますけど、それはワンネスでありますから全体でもあり、そうであれば、ワンネスの全体が理解そのものである、とも言えるわけです。ワンネスは意識でありますから、意識そのものが理解そのものである、とも言えます。これらは全て違ったものであるかのように見えて実は同じ事を言っていて、ワンネスとは全体でありますからそれは意識でもありますし理解でもあるのです。

このようなことを学者や研究者はそれぞれ別にして相対化して考えるので本質がわからなくなるのです。一見するとそれっぽい理屈を出して、その理屈を聞くと「あれ、この人わかっているのかな」と思えても、態度やその他の箇所で「あ、やっぱりわかっていないみたい」と見抜くことができるのです。そのように見抜くためにはワンネスとは本当はどのようなものなのかを知っていないと学者や研究者の強弁に惑わされてしまいます。

ワンネスとは対象化できず、全体であるからこそワンネスなのです。不二の意識、という言い方もできます。

それは見方を変えれば、不変であるということでもあります。仏教などでいう無常ということでもあります。意識は現れは消える、変わらないものは何もない、意識であれ物質であれ何も変わらないものはない。そのようなことを理解することがワンネスへの入り口でもあります。

そして、ワンネスの世界とは変わることがない世界です。この物質界は変化があります。一方、ワンネスの世界というのは物質ではありません。それは意識の世界です。満ちていて変わることがありません。

思考というのは意識よりも物質に近いところに存在しており、思考は消えたりしますが、意識は常に満ちています。思考というのは波(サンスクリットでVritti)であり現れたり消えたりしますが、その奥底には意識というものが変わらず存在しています。その意識というものがワンネスそのものであり、この世界に満ちています。空間にも世界にも宇宙にも意識というものが満ちています。そのことを理解するのがワンネスなわけです。

ですから、言ってしまえば、どのような知識ですらこのワンネスの前では効力を失う、ということでもあります。学者が「そんなことをしなくても理解できる」というとき、そこには「知るべき知識」というものがあります。ですが、ワンネスの知識というのはそのように対象化できないものなのです。インド哲学をインドで学んできた人が同様に言う時ですら、ワンネスを本当に理解していない場合は同様になってしまうことがあるのです。学問的に理解することは相対的な知識であり、直接的な知識とは「定義できないもの」でもあります。

この、「定義できないもの」を理解することがワンネスの理解には重要で、例えばゾクチェンの詩にあるように、無限の多様さとは元々二元論によって対象化されたこの世界の枠組みの遙か彼方にあり、そのどれ一つとして限りある概念の定義の枠に収まりきらない、ということでもあります。よって、ワンネスとは定義できないものであるわけです。このことを理解すれば、学者たちが「これをすれば知ることができる」という知識というものが本当の知識ではないことを即座に理解できる筈ですが、そこは当人たちのエゴが強い場合は「自分たちは知っている」という自己防御が働いて自分たちが無知だということを受け入れることができず、よって、結果としてヒステリーになったりケラケラ笑ってエゴによる自己防御の態度に出るのです。本当にワンネスの知識を得ているのならばそのような自己防御も不要なわけです。

学問的にも、ワンネスとは全体であるのだから対象化できず、よって、ワンエスを知るのは直接的に知るしかない、ということは理解できる筈です。しかし、学者や頭のいい人はこの文そのものを理屈として理解はするものの、直接的知識に至らないのです。そこに壁があります。そして、自己のエゴがあるために「自分は知っている、理解している」と強弁するのです。強弁こそせずとも、知識を得たことでそれを知っているとエゴが思い込むのです。

対象化することをやめ、直接的に理解すればワンネスとはとても簡単なことです。それは強弁する必要もないし、当たり前になってしまえば、ただそれだけのお話なのです。