「理解」という前提に立つと、この地球の物理的な世界は高次元の世界よりも学びがしやすい世界であると言えます。スピリチュアルというと高次元になって自由になってしかるべしという暗黙あるいは当然の合意があって、それにそぐわないものはスピリチュアルではないかのような風潮すらあります。しかしながら、実は高次元というのは自由すぎるあまり全てがすぐに思いのまま現実化されてしまいますので、そのことが何なのか、なかなか理解できずに不調和も調和も全て実現されてしまう世界なわけです。
一般的にはあの世はいくつも階層が分かれていて地獄と天国があって・・・ みたいなお話がありますけど、それはある意味、比喩であり、地獄の中にも低次元と高次元があって、天国にも低次元と高次元があるわけです。ですから、低次元だからとって必ず地獄なわけでもなく、天国だからと言っても高次元であるとは限らないわけです。
とは言いましても高次元の制限のない世界のことを学ぶのは重要で、我々は皆、そこから来たわけですから、どこから来てどこへ戻るのかを知ることは必要なわけです。一方、ここに来ている意味というのは、元々無自覚のまま意識を働かせて現実化させてしまった現実を重い粗大な物質界というところでゆっくり現実化させて体験することにより、その自らの意識とは一体何なのかをしっかり理解できるようになるのです。これが地上で学びが加速される意味です。
スピリチュアルで、もう学び終えた場合にもまだこの物理世界にいなくてはならなくて煩わしい、というのは現実問題としてありますけど、本来はそのように、もう学び終えたので卒業する、というお話であり、この物理次元がなくなって高次元だけになってしまうとまだ学び終えていない人が学ぶ場を失ってしまうことにもなり、不満も出てきてしまうかもしれません。学びというと何ですけど物事を理解するということは楽しいことであり、それは、言い換えれば遊びであるとも言えます。遊んで理解して楽しむ、ということがこの制限のある物理的な世界に住む意味で、そうして(遊びながら)某かを理解し続けている限りは宇宙を創造した主の意図に沿った行動をしているといえます。
(続きます)