これは一見すると「悪」であるかのように見えるかもしれません。ディープステートや陰謀論に代表されるような、混乱を目的とした悪意のある管理者であるかのように思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。
宇宙の法則は「理解」であるが故に、片側の意見だけを尊重して「善」によって地球を統一することは、そうではない側を「悪」とみなして弾圧することに繋がるのです。
ですから、地球の管理者は、片側の意見だけを「善」とみなして地球が統一されることを阻止しているのです。そして、善も悪もないような世界を目指しています。それは、いわゆる「善」によって地球が統一されることとは全く違うお話です。ここに、理解の壁があります。
一般的にスピリチュアルでは「善によって統一されることにより、善も悪もない平和な世界が訪れる」と理解されているように思います。しかしながら、そこで言う「善」が二元性のある片面における「善」であるならば、それ以外の価値観はないがしろにされ、存在価値を失ったかのように尊厳が失われてしまうのです。
実際はそのような二元性の善も悪もなく全てが「自分」であるワンネスがあり、自分を理解することが目的であり、自分とはワンネスそのもの、ワンネスそれ自身、および、分裂した状態の自分たる分身たちをも含んでワンネスであり、その全ての「自分(私)」がワンネスたる自身を理解するために分かれて存在しているだけなのです。それはワンネスとは何かを理解するだけでなく、実際に、他者もこの環境も物質も全てがワンネスたる「私」である前提で物事が理解されてそのように行動することであるわけです。頭の理解だけでなく、本当に理解したら行動も伴うということです。
ですので本当は二元性の善というものはないのですが、善だけを持ち出して地球を統一することは、当人たちは「統一」「統合」を謳っていたりもしますがそれは本来のワンネスの意味の統合・統一ではなく二元性の善による統一・統合であって、そのような二元性のある統一・統合は地球の管理者は許さないのです。
たとえ、努力によってそのようなことが成し遂げられたとしても、地球の管理者からすれば、そのように片方だけの価値観で統一された社会というのは「学び」が減るために、失敗とみなされます。それは、地球の時間軸が凍結されて別タイムラインに以降するか、あるいは、大災害が起きて部分的にやり直す、という具体的な結果として表れます。
多くの人は地球の管理者の意思を誤解していて、「悪魔に支配されている」ですとか「支配者がいる」「奴隷にしようとしている」みたいな噂を立てますけど、それは思い違いというもので、地球の管理者が介入しなければこの世界はただ1つの思想で統一されて他の考えを許さない、管理といいつも思想統制された社会になってしまいます。今後AIやITによる管理技術が進むにつれてそのような社会が加速される可能性がありますが、そうなると人々から「学び」の機会が減り、宇宙の法則たる「理解」と反しますので、地球の管理者はそのような学びの少ない社会は不要ということでリセットを決断することになるわけです。
ですから、地球の管理者は支配しようとしているわけではなく、人々が地球の「総体」として全体としてどの程度「学び」を増やすことができるかを重視しており、それはAIのように結果だけ得られれば良いというものではなくて、人間の「意識」それは高次元の意識の表れでもあるわけですが、その意識が「理解」をどの程度得られるがか重要なわけです。AIで優れた結果が出ようともそれは「意識」にフィードバックされませんから価値としてカウントされないのですが、人間がAIの結果を見て学ぶのであれば人間の意識の学びはカウントされます。
地球の各国の支配者層が地球を統一しようとした際に、その結果として地球全体の意識の理解を増やす方向に向くのであればその統一は地球の管理者から肯定されて継続を許されます。一方、思想弾圧あるいは同調圧力などにより地球全体の意識の理解を阻害する方向に向くのであればその統一は地球の管理者から否定され、その統一は成し遂げられないか、あるいは、地球のリセットが行われるわけです。それは全て、宇宙の法則たる「理解」に沿っているかで判断されます。
よって、自称ライトワーカーが「善」を主張して悪を滅ぼすことで地球を救おうと思い描いていることについても、そこで言っている善が二元性のもので思想を1つに統一する(例えばメタフィジックス・形而上学など)ということであれば、その結果として地球の人類の総体としての「理解」を阻害するのであれば、それは地球の管理者から否定されます。状況は多様に変わりますので、そのような不思議な論理ですらも他の要因と相まって地球の人類の総体としての「理解」を促進するという可能性もなくはないですが、基本的には、二元論を基本とした「善」が悪を滅ぼすというストーリーは子供じみた次元の低いお話で、世界の紛争はそのようなレベルで起きているのであり、単純な二元論では基本的は争いは継続しますし、もし「善」と称する側が勝利することがあって争いが止むようなことになっても思想的に貧弱な状況になるようであれば地球の管理者からその社会の存在は否定されることになります。
統一、統合というのはお互いの「理解」の後に訪れることはあり、そうであればその理解は自然なことです。
一方、善など片方の思想による統一や統合というのは相互の理解を欠いていますので地球の管理者から否定されます。又、形而上学や哲学による、一見すると「誰にでも適用可能な普遍的な考え」かのように見える思想で世界を統一する試みも「理解」を増やさないという点において地球の管理者から否定されます。統一理論は一見するとそれによって皆が納得できるかのように見えるかもしれませんが、それは「自由」を基本とする今の社会が違う思想に変わったことそう変わりはなく、目新しさはありますが、軸が違っているだけなわけです。
人々が理解を増やした結果として人類の全てが納得して自然な流れで思想が統一されるのであればそのような共通理解が起こるのはあり得ますが、それを思想として押しつけるのであれば地球の管理者から否定されます。何故なら押しつけの思想は総体として「理解」を増やさないからです。ですので、いくら立派そうに見える思想だとしても押しつけによる画一的な思想統一は宇宙の法則と反しているのです。そのような思想が広まったとして、総体として地球上の「理解」が増えるのならばその思想や統一は宇宙の管理者から肯定され、「理解」が増えないのならば宇宙の法則に沿っている、という、単純なお話です。
現状、自然にそのような統一がなされない以上、特定の思想に合わせれば世界は救われる、ということはありません。
あり得るとするならば、理解を増やすための土台として柔軟に考える、ということであれば地球の管理者から肯定されます。このことをうまく言葉で定義できるのであれば、「理解」を基準とした思想で地球が統一されることはあり得ますが、それは根本原理であるが故になかなか理解が進まないことかもしれません。人々は分かりやすい理論に飛びつくのであり、総体として「理解」を増やすという手間のかかる手順を避けがちであり、何かこれを理解すれば良いという単純なところに人々が落ち着くのであればその場所からはじき出されてしまうわけです。