アナハタ優勢になって以来、万人が悟っているように感じるわけですけれども、悟っている筈なのにおかしな行動するのはどうしてでしょう、というのが最近の謎でした。
悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?
これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。
世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。
よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。
どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。
具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。
それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。
と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。
「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。
「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。
しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。
それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。
ゾクチェンの詩に以下のようにあります。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。