瞑想で、電波の悪い携帯電話の通話のように雑念が切られる境地

2020-09-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

▪️真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想

そこは静かで、何もありません。

少し前であれば、何もない状態になると心が動揺していました。その動揺にも程度があって、1年くらい前には動揺の度合いがかなり減って、それはそれで動揺がなくなった境地ではあったのですが、ここ最近、更にその動揺が減りました。

言葉で表すとどちらも同じようなものになってしまいますが、平静な状態になると何某か心が動揺するものです。あまりにも静かですから心が「これでいいのだろうか?」と騒ぎ始めるのです。

その大きな変化が1年前くらいにあって、心がかなり平穏になったが故に心が動揺すると言うことがそれから度々あったように思います。

今回は、平穏な境地と共に、動揺がほとんどない状態に変化しました。

平穏な境地そのものも1年前と比べて少し変化しており、もともと1年前でもそれなりの平穏の境地だったように思いますが、今回は地平線が見えるほどに真っ白な平らな大地がずっと続いています。

その上に、少し宙に浮くように私が漂っているのがわかります。

そして、そのような平穏な状態であっても心が動揺していません。

瞑想から終わった後にその状態を言葉で表現しようとして今回は色々と状態を言い表していますが、瞑想中は特に気にすることなく平穏な状態が続いています。

これは、「至福」と言う感じではない・・・ と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、「歓喜」と言う感じの激しい喜びではなく、平穏でいてささやかな幸せな境地とでも言えるものです。

言うならば、「あの世」が存在しているとすればこのような平穏なものなのではないかとも思えてきます。人の世界から離れ、あの世があるとすればこのような平らで平穏な境地なのではないかとも思えてきます。

実際には、幽体が存在している人間界に似た世界は割と騒がしいのでここで言う「あの世」の概念とは違っていて、ここで言う「あの世」とは、死ぬときに昇天することができて成仏する時のイメージとして「あの世」と表現しています。そのように、成仏する時があるとすればこのように平穏でささやかな幸せがある境地なのではないかと思います。

これが「涅槃」なのかどうか・・・? と言われると、よくわかりません。そうなのかもしれないですし、そうでないのかもしれません。
これが涅槃なのだとしたたらこれが「悟り」なのかもしれませんが、そうかどうかはよくわかりません。そうかもしれないですけどね。

おそらく、これで終わりではなく、単なるプラトーであるような気も致します。

もし悟りというものがあったとしても、もしかしたら、それは単に一つの段階を終えて次なるサイクルに入る、入り口であるようにも思えます。

であれば、この状態がプラトーであり、まだ先があるということが理解できます。

今の状態は瞑想中で起こる一時的なものと瞑想後にも緩く続く同じ感覚ですので、これが確かなものになるまで瞑想を続ける必要があるのだと思います。

最高の悟りというものは上には上があると思いますし、この状態では、今の状態がどうであれ思い悩むことのない境地ではありますので、上があったとしても「ああ、そうですか」というだけのお話です。気にすることでもないですが、たぶん、これより上があるのだな、というのはなんとなくわかります。

「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると似たようなお話がいくつか書かれてあり、涅槃に達したとしてもそれが継続して起こるようになるまで繰り返し修行しましょう、と書かれてあります。

日本での悟りのイメージですと一回でも涅槃に達したらそれで悟りとみなされるようですが、継続して涅槃の状態に留まれるようになるまで修行して、継続して涅槃にいられるようになってもまだ尚、その上の境地への修行があるようです。

これは私の感覚と合っていますので、この本はガイドとして利用できそうです。


▪️ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地

真っ平らな平静な意識で瞑想を続けます。

ゾーンの時に沸き起こるような激しい歓喜はありません。ただ平静で、ただ、熱だけを感じています。

熱があって、それしかない。意識はあります。意識が存在していることを感じます。意識は寝ていません。

意識が深いところに行くと、体を忘れます。

そして、意識が戻ってくると意識は熱を感じます。あるいは、呼吸の動きを感じます。

意識がなくなってしまう状態ではなく、意識が起きたまま深いところに時々、辿り着くことがあります。あるいは、意識があって深く潜れていない時は熱や呼吸を感じています。

これらの状態は、言葉で言い表そうとすると昔の状態とかなり似ていて、読んだだけでは違いがわからないかもしれません。

世間では呼吸を観察する瞑想なども行われていますが、多くの場合、それはプラティヤハーラ(雑念からの離脱)あるいはダーラナ(集中、ゾーンによる歓喜)を意味すると思います。ここで言っている観察はプラティヤハーラのように雑念から逃れようとする行為ではなく、また、ダーラナのように集中しようとする行為ではありません。ここでいう静かに眺める、とは、意識が静かになっていることを前提としており、文字通りそのまま静かに眺める行為を指します。

熱を感じたり呼吸に意識しているとき、そこにはほんの少しだけ意識が動いています。雑念がなく、ただ、熱や呼吸を感じます。そこに雑念があるかないかが以前と今の違いです。

このメモのように、意識的に状態を観察して記録しようとする時は雑念ではないですけど分析的観察と思考が明確に働き、言語化します。その明示的な言語化はあります。また、雑念が完全にゼロになるわけではなく、雑念なく瞑想を続けられる時間が以前より長くなり、おおよそ50%を超えているのではないかと感覚的には思われるのですが、実際のところ瞑想はあっという間に時間が経ちますのでもっと割合は高いかもしれませんし低いのかもしれません。どちらにせよ雑念に惑わされなくなったという点においては確かです。

そのように意識が明示的に働く、あるいは、多少の雑念が働いたとしても、心の観察する力がかなり強くなっていますから、観察だけしていればやがて雑念は消え去ってゆきます。

実際、雑念を維持する方が大変で、同様に、思考や観察をしてこのメモのように瞑想中の状態を記録することの方が大変だったりします。瞑想的にはメモなんて何も取らない方が楽ですし、きっと時間的にはその方が早く進むのですが、私の場合は人生の目的の1つが悟りへの階梯を確かめることですので事細かに記録したいわけです。私に縁のある数々のグループソウルが転生する際は生まれながらにして悟っているのが当然だったために、私のように悟らずに生まれるパターンは貴重で、皆にフィードバックしてあげたいのです。それが人生の目的の1つであります。

そのように、想念が勝手に消えてしまう境地はリクパが動き出した境地と言うこともできると思います。

よく、瞑想の指導を受けたりすると「瞑想中に浮かんだ雑念とは戦わず、ただ観察しましょう。観察すればその雑念は力を失って消えてゆきます」とか教えられたりしますけど、それはある程度瞑想が上達してこの種のリクパが動き出した人であればその通りですけど、大抵の人はただ雑念に翻弄されるだけだと思います。聖者がかつてそのようなことを言ったのを真に受けているのでしょうけど、それっぽく聞こえますけどそれなりの瞑想中級者にならないとこれは真実ではないのですよね。

この種の、雑念が自動的に消える境地に達すればそれはおそらくヴィパッサナー(観察)と呼ぶ状態に相応わしいような気が致します。

流派や技法としてのヴィパッサナー瞑想は段階的にはもっと手前のプラティヤハーラ(制感)だったりしますので、ここで言っているヴィパッサナーはそう言った流派や技法のことではなくて、本来ブッダが言っていたであろうヴィパッサナーとはこのくらいの境地のことを意味していたのではないか、と言う私の推測です。


▪️目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地

平らな境地に達すると、やがて、瞑想中だけでなく日常生活にまで平穏な意識が広がってゆきます。

最初は視界がスローモーションで感じられると言うような動体視力による変化でした。やがてその視界の感覚は普通になり、特に視界だけに変化があると言うよりは五感全てに行き渡る感覚に変わりました。最初は、視界だけが強烈になったのですが、今はその頃のような強烈さはなく、目へのエネルギーは抑えられているようです。目に集中すれば視界が細かく入ってきますが、普段はそこまで目にエネルギーを送らず、節制しているようです。最初はコントロールできなかったのと、視界が面白いのでずっと映画のような感覚を楽しんでいました。

今は五感全てに感覚が行き渡り、瞑想中だけでなく、周囲の感覚が静かに常に入ってくるようになりました。程度問題と言えばそうかもしれませんが、そうなった鍵は、平穏な意識にあるように思います。

そのように、最初は瞑想中だけであったものが、日常生活まで広がったのです。

少し前は、何段階かに分かれて平穏状態になると言う種類のもので、瞑想が終わると少しずつ戻っていきました。今は、日常生活でかなり平穏状態で、瞑想をすることで更に深める、と言う種類のものになっています。

それにより、座った瞑想においても変化がありました。

以前は、座った瞑想で目を開けると視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になってそれが映画のように感じられて心が高揚するという感じでした。それ自体は面白いのですが、瞑想という観点からいうと、目を瞑っていないと何段階かに分かれて平穏状態になるというような瞑想の効果が出なかったのは事実です。

瞑想で平穏状態に持っていくためには目を閉じて行う必要がありました。

しかし、最近の変化で、座った瞑想中に目を開けていても平穏な瞑想状態が続くようになりました。

・・・これは、言葉で言い表すのは難しいかもしれません。

ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地あるいは、もしかしたら涅槃と呼んでもよいかもしれない意識、それが目を開けていても続くのです。

おそらく、目というものはかなりエネルギーを消費するのです。ですから、やはり今でも目を瞑った方が瞑想はやりやすいと言えばやりやすいのですが、目を開けていても涅槃が続きます。

これを涅槃と呼んでいいのかどうかは微妙ですが、とりあえずそう呼ぶことにします。

他の違いはというと、スローモーションのヴィパッサナーの時は目にエネルギーが行くことで目の前の対象にフォーカスが自然に合わせられます。視界がはっきりとします。今は、意識的にフォーカスを合わせることもできますが、瞑想状態であれば視界がそれほど合わないぼやけた状態でいることが普通です。焦点を合わせるということは意思の力が必要で、涅槃の状態ですとそれは意識的に働かせないとならず、自動的にはそんなに動いていないようなのです。

この状態ですと、自身の本体が肉体の皮膚という皮の内側に存在しているのを感じます。

おそらくは、周囲に興味を持ったりするときは自分の本体、オーラと言っても良いものが体から出て対象に向かって伸びている状態なのではないかとも思います。

一方で、このいわゆる涅槃の状態では自分自身が体の内側にすっぽりと入っており、皮膚の厚みがしっかりと感じられて、皮膚の内側に自分が収まっているのを感じます。

自らの中にしっかり収まっているので、周囲の思念波にもほとんど影響されません。

きっと今まではオーラが外に向かって発散しており、オーラが自らの中に凝縮されたということもできるのではないかと思います。

この状態ですと、目を開けていてもいわゆる涅槃の平穏の状態が続くようです。


▪️雑念が生じると同時に解放して静寂な境地に近づくシャルドル

平穏な意識状態はおそらくはゾクチェンでいうところのチェルドルあるいはシャルドルに相当するような気が致します。

これは、サマーディを続けるうちに育ってくる3つの能力のうちの2つです。

1.チェルドル →これか
2.シャルドル →これ
3.ランドル

シャルドルの定義は以下のようなものです。

シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。すなわち、いかなる種類の感受が生じても、それはみずからを解放する。知恵を保とうとする努力すら不要だ。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初のチェルドルの段階では雑念は段階的になくなり、瞑想することで平穏な状態に達しました。今は、特に瞑想中、特に努力しなくても自ら雑念がすぐに解放され、強い太陽の光に照らされた水滴のようにすぐに蒸発してしまうように思います。そしてそれは、明示的な座った瞑想が終わってもしばらく続くのです。

この状態はもちろん行ったり来たりしておりますので多少状態が戻ったり進んだりということがあります。しかしながら、平均すると割とシャルドルの状態が多くなってきたような気が致します。

ゾクチェンでは、この状態を以下のように説明しています。

ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。密教の守護尊の中には、克服された五つの煩悩を象徴する、頭蓋骨できた王冠を、装飾として身にまとっているものがある。その王冠は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

最初の段階のチェルドルではまだ自分の努力が必要で、であれば、まだ五感の煩悩は装飾品とまではみなせていなかったような気が致します。チェルドルではまだ五感の煩悩が自分自身と幾分かは一体化しており、それを引き離すためにある程度の瞑想が必要でした。そのことが段階的にやってくる平穏状態として認識されていたのかなと思います。

そうは言いましてもこの種の煩悩・雑念からの分離はヨーガスートラ的にはプラティヤハーラとして識別されており、かなり初期の段階から意識されていることではあります。初期の基本であるからこそ初めのうちから意識され、ここにきてようやくほぼ完成に至るということかなと思います。

・プラティヤハーラ 雑念からの分離を試み始める。1〜2割
・サマーディのチェルドル 雑念からの分離の最終段階の始まり。7〜8割
・サマーディのシャルドル 雑念からの分離の最終段階がほぼ終わる。9割。ここ以降が静寂な境地

そして、次の段階であるランドルに達するとその分離が更に進むように思います。

このチェルドルにせよシャルドルにせよ、ヨーガスートラではきちんと説明されていません。サマーディ以上になるとヨーガスートラでは説明不足で、ゾクチェンや原始仏教をあたらないときちんと自分の状態を把握できないような気が致します。


▪️シャルドルのような状態でもトラウマなど葛藤は存在する

シャルドルかもしれない状態になっても時々トラウマが出てくることはありますし、雑念も浮かびます。しかしながら、出てきた後の対処が割と自動的に行われる点が違うと思うのです。

瞑想あるいは日常生活において不意に過去のことを思い出して葛藤が出てくるとします。以前であれば尾を引いてしまったりしますが、今は、自動的にそれが消えてゆきます。太陽が水滴を照らして自動的に蒸発するかの如く、出てきた葛藤は次第に消えてゆきます。

これらの力は程度の差こそあれ、以前から育ててきたものです。ですから、言葉で言い表そうとするとどれも似たり寄ったりにはなってしまうのですが、チェルドルですとある程度自分が意識してその葛藤を見てあげないと消えてゆきません。しかしながら、シャルドルの場合は何か自動的に「見る力」が働いてすぐに消えてゆきます。そこが1番の違いのような気が致します。

大きなトラウマであれば一瞬は深く傷付いたりします。ずっと忘れていた深い過去の記憶が出てきた時は、それが久々であれば久々であるほど大きく精神的なショックを受けます。

ですから、シャルドルはおそらくは静寂の境地の入り口ではあるのですけど、静寂の境地に達したからと言ってすぐにトラウマなどの葛藤がゼロになるわけではないのだと思います。

先日お伝えしましたように、煩悩やそれに類する感覚、トラウマも含めてそれらの諸感覚は全て「装飾」であるが故に、装飾として認識できるようになったという違いはあれど、その諸感覚はやはり、ある程度は存在し続けるということなのでしょう。

カルマは何種類かありますがこの世に生まれてきたカルマはまだ継続していて、いくつかのカルマの種類は悟り・モクシャ(自由)を得ても継続すると言います。

トラウマも過去の行いが原因で起こるものであれば、その結果としてのトラウマが出てくるのは避けられないことなのでしょう。

ただ、もはやトラウマに囚われる間隔はとても短くなり、そのトラウマから解放されるプロセスもシャルドルにおいては自動的ですから、一時的な記憶と傷つく感情としてトラウマを体験することになると思います。それは心が痛むのは痛みますし、その痛みがなくなるわけではありませんが、シャルドルの静寂の境地の力によってその痛みから解放する力が一定以上にまで上がったと言うことができると思います。

[2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。


▪️電波の悪い携帯電話の通話のように雑念が切られる境地

シャルドルのようにも解釈できる状態になって瞑想をしても雑念は上がってくるわけですが、それ以前と異なり、雑念がまるで電波の悪い携帯電話の通話のようにプツプツと途切れ途切れになってすぐ雑念が切れてしまいます。

昔はもちろん、雑念があったらあったで雑念の文脈一塊の分だけはとりあえず聞いた上でその先は囚われずに受け流すとか、そんな感じで一応は雑念が来たら受け止めていました。

しかし、ここシャルドルでは雑念が来たら途中で勝手に切れてしまい、雑念は一応は雑念ではあるのですが雑念が意味ある文脈を持ちにくくなったような気が致します。

何やら意味を持つ前に雑念が切れてしまい、何の雑念だったのかすらよくわからない状態です。

その切れ方がまるで、携帯電話で電波状況が悪くてプツプツと切れ始め、やがてプッツリと切れてしまう状況に似ているのです。

明示的な思考は意思を使わないとならず、雑念が勝手に思考のように振る舞うような動きはかなりなくなったように思います。

以前であれば、雑念は所詮は雑念ではある筈なのに何か考えついたかのような自動的な思考が生まれたり論理的であるかのような振る舞いを雑念がして見せたり、はたまた、性的欲求のシナリオだったり、あるいは、あたかも崇高な思考が出たりしました。

しかしながら、シャルドルですとそのような自動的な思考がプツプツと途切れてしまい、自動的に静寂の境地に強く引き込まれるようなのです。

又、以前の、まだ意識が荒い時は雑念と指導霊のインスピレーションを見分けることができずに両方とも雑念として認識していたように思います。それも、次第に見分けることが容易にはなってきたのですが、このように雑念がプツプツと勝手に切れるようになると指導霊のインスピレーションと雑念との違いが明らかになったような気が致します。

雑念は必ずしも言葉ではなくて雑多な感覚であることもあります。雑念であれば波動が低く、インスピレーションというほどの高い波動の感覚とは異なり、単なる雑多な感覚あるいは言葉のようなものになります。そして、わかりやすいようにここでは言葉の場合で説明いたしますが、例えば早ければ1文字目、だいたい3文字から5文字目くらいまで雑念が来たところで携帯電話の電波が悪くなった時のようにプツプツと言葉が切れ始め、そのまま切れてしまいます。雑多な感覚であれば受け始めるとすぐに感覚が切れ始め、そのまま切れてしまう感じです。

この他に、記憶の奥底に眠っていたトラウマ的なものはこんなに簡単にはいきませんが、それでも、以前より遥かに早く切れてしまう感じが致します。

瞑想中はこんな感じでしたが、瞑想が終わった状態では必ずしもこんなすぐに雑念が途切れません。何が違うのかな・・・ と観察してみましたところ、おそらくは体の中に熱や深い宇宙を感じている境地になってエネルギーが高まっているとこのように雑念がプツリプツリと切れるのかな、という気も致します。必ずしも毎回このような感じになるわけではなく、体の中心に漆黒の宇宙と煌めく数多くの銀河の小宇宙を少なからず感じた時にこのようになる気が致します。

これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るという基本的な法則に沿っている気が致します。

ただ、瞑想したからと言って必ずシャルドルになるわけでもなく、うまく行っている時はこうなる感じです。


▪️成仏するのと似た境地のシャルドル

シャルドルと思われる状態で雑念がどんどんと断ち切られる境地は、成仏するのと似た境地であるように思われます。

私のグループソウルの過去生を辿りますと、何世代か前に成仏してグループソウルに合流致しました。死ぬとあの世に行くわけですけど、そこで友人知人の霊および元の家族の霊たちと合流します。

成仏の前に生きた人生ではとある上場会社の社長をしており、かなり満足の行く人生でした。

ですので、死後、その時の元妻だけでなく多くの縁のある過去生の妻達などとも合流し、「ああ、幸せ。幸せ。幸せ。満足・・・」と言う気持ちになり、天に昇って成仏したのです。いわゆる昇天ですね。

昇天をするとグループソウルに戻り、グループソウルと溶け合います。その辺りの説明は今まで何度かしてきましたし、これからも度々しようとは思いますけど、今回のお話はそこではなくて、昇天する時の満足する感覚です。

成仏して昇天する時の満足する感覚と、このシャルドルで雑念が消えてゆく感覚とがとても似ているわけです。

成仏して昇天するときは雑念がかなり減っており、それは必ずしもシャルドルのような観察する力を伴わないようにも思いますが、このシャルドルの状態ですと各種の葛藤やトラウマがあったとしても成仏して昇天するかのような感覚に導かれてゆくのです。

まだ完全に成仏とは言えないとしても、成仏の感覚にどんどんと近くなってゆくのを感じます。

ただ、そこには満足と熱感だけがあった。人によってはこの熱感を「光」と表現するかもしれませんが、単に熱と言った方がしっくりきます。

ゾーンの歓喜のような激しい浮き沈みはなく、ただただ満足する境地。それはまさに、私のグループソウルの過去生の記憶にある成仏した時の記憶ととてもよく似ているのです。

何故その記憶があるかと言うと、成仏してグループソウルに合流した後、残された妻たちのことが気になり、再度、グループソウルから分離したからです。私がいなくなると残された妻たちが困るかもしれない・・・ と思って、グループソウルから再離脱しました。その時、必ずしも以前と同じではなく、コアになっている部分は同じですけどグループソウルとある程度は混ざり合って、少し違った私となって分離しました。その時に分離した魂が私の今の人生の一つの系統の基になっているわけですけど、まあ、それは余談というもので、ここで言いたいのは、成仏して昇天する時の感覚がシャルドルの感覚にとても似ている、と言うことでした。