細かいお話です。
まず、プラティヤハーラは観察と言えなくもありませんので、プラティヤハーラが観察瞑想だとすればその他の瞑想を集中瞑想だと勘違いしてしまっても不思議はありません。
ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、流派の瞑想の名前にもなっています。ですから、手法としてのヴィパッサナー瞑想と、サマーディにおけるヴィパッサナー状態(観察状態)と、とても紛らわしいのです。
そして、プラティヤハーラの段階にいますとその次の段階のことが分かりませんから、時々、集中瞑想を否定する人、あるいは流派がいたりするわけです。
その集中瞑想は、ヨーガスートラ的なダーラナ(集中)の段階のことを意味したり、あるいは、人によってはサマーディも集中瞑想だとみなしている人がいらっしゃいます。
これは、サマーディという言葉の定義が流派によって異なるために生じている誤解です。
いくつかの要素が絡み合っているわけです。
・プラティヤハーラは観察とも表現できる。(ヨーガスートラ的には感覚から離れること。制感。)
・ヴィパッサナーとは流派の名前あるいはサマーディの状態を意味する。
・ヴィパッサナーの流派によっては集中瞑想(サマタ瞑想)を否定する。
・集中瞑想(サマタ瞑想)というとヨーガスートラ的なダーラナ(集中)のみならず一部の流派ではサマーディも含まれる。
実際のところ多くの団体はプラティヤハーラとは言っていませんので、以下は私の主観による判断になりますが、私の理解を記してみます。
プラティヤハーラを「観察」と位置付けているのは以下と思われます。
・大衆向け瞑想のマインドフルネス式
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
・その他各種のヴィパッサナー瞑想の流派、テーラワーダ式とかミャンマー式
これはおそらくヴィパッサナー系では統一されている認識のような気が致します。
ヨーガ系では「観察」とは言わずにプラティヤハーラという言葉そのままな気が致します。
ヴィパッサナーという言葉の意味は以下の対応のような気が致します。
・マインドフルネス式 → プラティヤハーラ相当の「観察」という意味。
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 説明ではヴィパッサナーとはブッダの観察瞑想、実際やっている手法のヴィパッサナーはプラティヤハーラ相当の五感・雑念から逃れるための努力。
・テーラワーダ式 → おそらく、全てを分かった上でプラティヤハーラ相当を「観察」と言っている。
・ミャンマー式 → こちらも、おそらく全てを分かった上でプラティヤハーラ相当の「観察」から始めている。
集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するかどうか?
・マインドフルネス式 → 否定しない
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 否定する(ヒステリーに集中瞑想を嫌う)
・テーラワーダ式 → 否定しない
・ミャンマー式 → 否定しない
(補足:インドのヴェーダンタ系 → 否定する。これは意外でしたが、ヴェーダンタ系は知識(ニャーナ)によってモクシャ(自由、輪廻からの解放)を目指すのでやり方が違うようです。)
集中瞑想(サマタ瞑想)が意味するところ
・マインドフルネス式 → 単に「集中」というのみ
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)のための準備としてアーナパーナ瞑想(集中瞑想)という位置付けだが、実際にはそれはプラティヤハーラをするための準備になっている。集中瞑想(サマタ瞑想)が準備としておきながら、ひたすらに集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するネガティブな見識になっている。これはプラティヤハーラのレベルの特徴。
・テーラワーダ式 → 前提条件としての集中力
・ミャンマー式 → 前提条件としての集中力
これらの流派の中で、いくつかの特徴が見て取れます。
■集中瞑想を否定する流派、あるいは人々
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
・顕教の流派にいる一部の宗教家
・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。
(補足:インドのヴェーダンタ派もそうだが毛色が異なる)
■サマーディを単なる集中瞑想だと誤解している流派、あるいは人々
・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。
(補足:インドのヴェーダンタ派は誤解というよりはやり方がそもそも異なり、サマーディという言葉の意味そのものは集中である、と主張する)
まず、流派として誤解している人がいるわけです。それに加えて、教えは正しくても、自分が悟ったかのように勘違いしている人がいるわけです。そのどちらも、似たような傾向があるような気が致します。
プラティヤハーラ相当ですと見識に勘違いがありますのでマウンティングをしたり、比べたり、自己主張をします。
その勘違いの一つとして、この、集中瞑想に対する誤解があるわけです。