アートマン(真我)を安定させてヴィパッサナーの観察状態に至る

2020-09-18 記
トピック:スピリチュアル: 十牛図

先日の続きです。

瞑想をして、「わたし」が肉体の体と一致すると、その時、スローモーションのような微細な細かな動きと感覚が奥深いところにある「わたし」に伝わってきます。その時、まだ慣れていないのか、同時に「自我」としての私も少し動きますので、自我が動いてしまったら一旦動きをやめて、奥深いところにある「わたし」だけが動いて体の感覚と一致するように少しずつ意図します。自我が動いた時は一旦また集中瞑想に戻り、緊張が少し出てきた時には静寂の境地が現れるまで一旦は落ち着きます。そして、静寂の境地に達したら、再度、奥深いところにある「わたし」を動かして、肉体の体を一致させます。

おそらくはこの奥深い「わたし」のことを「アートマン(真我)」と呼んでいるような気が致します。

「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、Step6として「心身脱落から真我の安定へ」が説明されています。

まず考えるべきは安定度だと言えよう。(中略)身体の中府に安定させ、その後「止」がさらに深まり、「観」の働きが高まった時に、真我が観照できるのだ。「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」

アートマンを肉体と合わせるようにして安定させる。そこがポイントのような気が致します。

おそらくはこのことが達成できるとスローモーションのように体の動きを感じるヴィパッサナー状態になるのかな、と言う気が致します。

十牛図のステップと比べると私の状態は完全には一致していませんけど、この部分の記述はとてもよく似ていて、参考になります。おそらくはここに至るまでの道筋はいくつもあるのかな、と言う気も致します。

シャルドルの段階とこの段階との対応も興味深いです。シャルドルに至って雑念が太陽の光を受けて蒸発するかのように消えてゆく境地に達し、真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想に達しましたが、その時、私は白い平らな大地の方ばかり目が行っていましたが、その上に「わたし」がぽっかりと浮いていたと思います。その「わたし」の方は私はスルーしていたのですが、この十牛図瞑想法の本の記述を見ると、もしかしたらその時に見えたぽっかりと浮いていた「わたし」こそがアートマンだったのではないか、と言う気がしてきます。どうでしょうね? あんまり重要なところではないかもしれませんけど、同じような記述のような気が致します。そのように考えると階梯も割と似通っている気も致します。

十牛図瞑想法の本のこの後のステップもわかりやすく、今後はこのアートマンを更に安定させて活性化する、と書いてあります。これは私の中でおそらくそうなのではないか、と思っていたことと一致します。と言いますか、少し前にこの本を何度も読んでいましたのであまり記憶に残っていなかった箇所ではありましたけどなんとなく覚えていたのかもしれませんね。その時はピンときませんでしたけど、今読むと、とても本質的で正しいことがぎっしり書かれてあるように思います。ただ、流派の独特の記述も多いので最初はわかりにくかったと思います。今はある程度は読み飛ばして確認したいところだけ読んでいます。

これは、次のステップも明確ですね。ゾクチェン的にもシャルドルの次の段階はランドルで、その辺りと対比して見ていくと良さそうな気が致します。