呼吸による瞑想状態(静寂の境地)への入り方

2020-09-20
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

割とありきたりですけど、呼吸に意識を合わせます。すると、割とすぐに静寂の境地へと達します。

最近は割と単に座ることも多くて、それでも静寂の境地は現れるわけですが、時々、昔のように雑念が繰り返されて静寂の境地に至らない時もあります。かと言って昔のように悩まされるわけでもなく、内容といえば私生活のことだったり仕事のことだったりと割と役立つことも多いので自動的な思考を気付きの一環として利用できたりもします。ですから特に思い悩むこともないのですが、それが瞑想かというとちょっと違う感じですので、なかなか静寂の境地に自動的に入らない場合は意識的にその状態へと持っていってあげる、ということをします。

最初から呼吸に意識を合わせてもいいのですけど、普段の日常生活で気付いていなかった思考を一旦は整理した方が良い感じですので最初は自動的に思考を流しています。そして、そろそろいいかなと思ったら静寂の境地へと持っていくために呼吸に意識を合わせるのです。これは私の最近のやり方ですので、後で変わるかもしれませんし、人それぞれ好みもあるでしょうし、古典的ヨガの瞑想ですと最初から割と呼吸に意識を合わせて静寂の境地に持っていくと思います。

普通に呼吸を観察するだけでも静寂の境地になりますし、1呼吸か2呼吸、割とすぐに意識は静まります。よりはっきりと明確に意識を鎮めたいときは深呼吸すれば更に鎮まります。

この深呼吸で、観察と集中、両方とも高まります。瞑想は観察だけでもなく集中だけでもありませんので、この深呼吸のことを集中ということもできますし観察ということもできます。言い方に違いはあれど同じことです。流派によっては「観察ではなく集中だ」とか「集中ではなく観察だ」とか言ったりもしますけど、私からしたら同じことです。かと言って、そう言われたからと言ってわざわざそれを指摘したりするような野暮なことはする必要なくて、実際のところ、観察と集中は裏表で一体のようなものだと心に留めておけば十分だと思います。単に、その流派ではその言い方が合っているというだけのお話で、このような言い方の違いに初心者は惑わされたり、他の流派と比べてしまって「あっちが良い、集中が良い、いや、観察が良い」とか様々に思ってしまったりしますけど、単に瞑想の一面を述べているだけで、実際は大差なく、対局を見ればどちらも割と同じことです。それでも一応はヨーガスートラ等で階梯があって、対局としては集中から観察へ、という流れはあります。ただしその集中に至るための準備としての観察というものもあって、なかなか瞑想の世界はわかりにくいものになっています。

・・・そんなわけで、瞑想というと小難しいお話が色々と出てきますけど、それはおいおい理解すればいいことで、実際の瞑想はもっと単純なわけです。

何か、例えば職人や技術職で自分の得意な仕事をしようとするとき、意識を切り替えて集中しようとして深呼吸して仕事モードに入ったりするでしょう。その時の深呼吸は瞑想に入る時の呼吸に似ています。というか、ほとんど同じものです。深呼吸をして意識を鎮め、仕事に集中するのです。その境地に達していないのであればその職人や技術職はまだ熟練したとは言えないと思います。これは別に瞑想しているからとかそういうお話とは関係なく、おそらくは普通にどこでもあるものと思いますが・・・。少なくとも私の知っている範囲であれば。音楽の世界などでも楽器を演奏するときなど深呼吸して静寂の意識に入るでしょう。それを集中と言う場合もあるでしょうしモードに入ると言う時もあるでしょうし言い方は色々あるとは思いますが、同じことだと思います。そのことをここでは瞑想状態に入る、と表現しています。

そのように実際は瞑想状態に入ることは特別でも何でもないのですが、最近は割と瞑想状態が何なのか忘れられてしまっているような気が致します。多くの人が欲望に身を任せて瞑想状態がないまま生活するのが普通になってしまっています。

特に座った瞑想をしなくても静寂の境地に入るような習慣があれば割と瞑想と同じことをしているとは思います。一つでもそのような境地への入り口を知っているのであれば瞑想に入るのも簡単なことで、ただやり方がちょっと違うだけで、座ってからその時のように深呼吸をして静寂の境地に入ればいいのです。

最近は割と瞑想が全く違う世界のものとして、例えばスピリチュアルだとか神秘体験に結びつけられて考えられることが多くなってきました。しかし、本来の瞑想と言うと必ずしもスピリチュアルや神秘体験と結びついたものではなく、職人や音楽家、あるいは武士などが静寂の境地に達するための手法として存在していた面も多いように思います。そして最近はそれらが同じ境地であることが忘れ去られ、瞑想というものがどこかふわふわとした実体のないものになっているような気が致します。

確かに瞑想と言うと神秘体験を伴うこともありますが瞑想と言うと本質はそこではなく、自らの本質と繋がる行為、それはすなわち静寂の境地に至って自らの本質を外側へと顕現できるような境地に至ることであると思うわけです。まずは自らの心の本質がありのままに外を認識できるようになり、やがては、その心の本質が自在に体を動かすようになるわけです。

心を覆ってしまっている雑念や欲望、葛藤などがその心の本質を覆い隠し、心の本性が出てくることができないのが多くの今の人の現状です。そして、その状態を更に強化させるべく世の中に欲望・葛藤・刺激・妬みなどが宣伝され、霊的な観点は失われ、欲望に生きることこそが人間として正しいと教えられてしまっているが故に救いがなくなっているのです。

救いにしてみても、心の本性をむきだしにすることだけが救いである筈なのに、別の欲望や依存を作り出して救いだと言っている悪魔の団体が多くあります。そのような悪魔の団体が宗教の仮面をかぶったり心理学カウンセリングあるいは啓蒙セミナーと称して人を更なる混迷へと導いているわけです。それは救いがないです。

瞑想は、そのような「追加」するアプローチとは全く逆です。瞑想とは、雑念を取り払うプロセスであり、人によっては深呼吸をするだけで雑念が取り払われ、静寂の境地に達します。しかしながら厚い雑念や強い葛藤に覆われてしまっている人は数回の深呼吸で静寂の境地に達することはできません。ですから、そのような場合は地道な日々の努力で雲を取り払う必要があるわけです。それが日々の瞑想のプロセスになり、やがては、雲が晴れて静寂の境地に達するわけです。

個人的に思うのは、最初の段階では瞑想をするより職人や技術職などで集中のプロセスを辿る方が結局は早道なのではないかな、とは思います。これは人によると思いますので必ずしもこの道を勧めるわけではありませんが、個人的にはそう思います。

瞑想の教授を受けると、呼吸で静寂に達します、などと軽々しく説明されることも多い気がしますけど、実際はそんな単純ではなく、色々とプロセスがあるわけですね。そんな簡単に呼吸で静寂な意識に達することができるならわざわざ瞑想を習いにきたりはしない、とも個人的には思ってしまうわけで、瞑想の指導をしているのであればもう一歩二歩と踏み込んだ上で、どうして呼吸で静寂の境地に達することができないのかを説明すべきでありますし、その場合も、大抵は「雑念などの雲で覆われてしまっている」と言う説明は割とどこでも聞けると思いますけど、実際に教えている人が静寂の境地に達していないことも多くて、その言葉が空虚で空回りしていることも多々あるのが悲しいところです。言葉としてはその通りなんですけど、実際にそれを言う人がその境地を知っていないと伝わらないと思いますけどね。

そのように、瞑想の手法としてはとても簡単で、「ただ、呼吸しさえすればいい。そうすれば静寂の境地に達する」と言うものではあるのですけど、そこに至るにはステップが必要なのだと思います。

深呼吸をしてもぜんぜん静寂の境地にならなかったのだとしたら、それは手法の問題ではなくてまだ心に雑念が厚く覆い尽くしていると言うことですので、地道に瞑想をしたり仕事に打ち込む必要があります。秘法で簡単に取り払うとかそう言うものではありませんので少しづつ行う必要があります。ある程度の筋道がありますのでそれに従えば半年あるいは年単位で変化が起こります。1回やっただけで変化があるものでもありません。

リラックスする方法で「深呼吸しましょう」なんて人は気安く言いますけど、深呼吸くらいでリラックスできるなら最初からリラックスする方法なんて聞かないですよ、と言うことでもあります。深呼吸は手法でもあり、その一方で、深呼吸でどのように変化するかは意識の状態を測る目安でもあるわけですね。

静寂の境地への入り方は説明としては簡単で「瞑想しましょう」「呼吸に意識を向けましょう」と、言うことは簡単ですけど、本当にできるのであれば瞑想を始めて呼吸を1回か多くても数回も観察すれば後は静寂の境地に入ってゆけるわけです。

ここで勘違いして欲しくないのは、呼吸に意識を向けること自体が静寂の境地ではないと言うことです。呼吸に意識を向けるのは静寂の境地に入るためのただのきっかけです。きっかけですから、補助輪のようなもので、最初に少し呼吸に意識を向けて意識を平らにすればあとは補助輪であるところの呼吸への意識をやめても問題なく静寂の境地が続くのです。

たまに、瞑想の流派で呼吸の観察をすることが瞑想だと思っている方がいらっしゃいますけど、それも瞑想の手法の1つではありますがここで言っている呼吸による静寂の境地の瞑想とは異なっていて、呼吸に集中している状態というのはあくまでも雑念から離れると言う観察、あるいは、呼吸に集中するという行為をしているのであって、瞑想における静寂の境地とはかなり異なります。呼吸の観察あるいは呼吸の集中というのはあくまでも補助輪であるところの呼吸への観察あるいは集中を延々と繰り返すということであり、瞑想の静寂の境地はその補助輪を外した後にやってくるわけですね。

ですから、瞑想の「入り方」として呼吸へ意識を合わせることはしますけど、静寂の境地の瞑想状態そのものが呼吸へと意識を合わせることではないわけですね。

それは一旦できてしまえばとても簡単で、シンプルなお話なのですが、試してみてできなければなかなかできない、というお話になります。ですがおそらくは誰でも可能で、自分の意識を少しづつ鎮めて行けば誰にでも可能なお話なのだと思います。