思うに、神様はチャネラーや霊能者を、言葉は悪いですけど使い捨てにしているように思われます。
最初、目をつけた人がいたとしたらコンタクトをしてメッセージを伝えます。
そのうち、その人が得意気になって神の言葉を偽るようになると神は離れてゆきます。
だいたい、この繰り返しです。私の見た範囲ではそんな感じです。
神の言葉を聞けなくなると、今度は自分の頭の中で想像の神の言葉を作り出します。
新興宗教にありがちですね。最初は良くてもそのうち教祖様になってしまうわけです。
「神の言葉です」と言われたら周囲の人はそうそう反論できませんから、ほとんどの人はその真偽を確かめることなしに受け入れざるを得ません。そうするうちに、大人しく従う人だけが集うことになるのです。
その姿は、本来神が望む姿とはかけ離れています。
神道であれば審神者というものがありますし、ヨーガですとそもそもチャネリングを良いものとはしておらず、チャネリングに否定的な流派がヨーガでは主流です。そのような力を持った神々との接触は悟りへの妨げになる、というのがヨーガの基本的な立場です。
この世には力を持った霊や人間が沢山いて、神のごとき力を持っている人もいます。しかし、最終的な悟りという観点からすると、最高の悟りに達したのであれば力からは開放されています。誤解があるかもしれませんが、最終的な悟りを開いたならばこの世の理から開放されるので、強いも弱いも関係のない世界へと到達するということです。
幽霊とか悪霊とか天狗とか神話に出てくるような人格神の力というのはいわゆるアストラルな思いの力によるものです。しかしながら、悟りを開いた人はその次のコーザル(カラーナ、原因)の世界に住むようになりますのでアストラルを超越しています。
いわゆる人格神としての霊能力はファンタジーに出てくるような魔法の世界で、思いの力を蓄えたり奪ったり利用したりして超常的な力を作り出します。それはそれで凄い能力ではあるのですが、その世界に関わっていると悟りに到達しないのです。
よく、覚醒という言葉がありますけど、人によってその意味するところは違いますけどアストラル的な能力の覚醒という意味と悟りという意味での覚醒とがあると思います。アストラル的な覚醒であればまだ感情の世界であり、悟りとしての覚醒であればコーザル的なものになります。
悟りという言葉も流派によっていろいろですのでアストラル的な悟りの場合もありますけど、言葉の定義というよりは、魔法的なものであればアストラル、魔法や感情を超えた世界であればコーザルですね。コーザルのほうが悟りというのに相応しいと思います。
どこかの本に書いてありましたが古代のミラレパという聖者はコーザルの悟りを得ており、周囲にいる一般の修行者はアストラルの悟りでしたのでその能力にも違いがあり、例えばアストラルの悟りを得た一般の修行者は空中浮遊で数メートルあるいは数十メートル浮上することができたのに対し、コーザルの悟りを得たミラレパは山の頂上まであっという間に登ることができた、という違いがあるそうです。アストラルの段階では能力にも限界がありますが、コーザルに至るともはやこの世界と一体になったかのような偉大な能力を得るようです。
アストラルの段階では善と悪があり対立がありますが、コーザルに至ると善悪を超える、という面もあります。
チャネラーや霊能者は、往々にしてこのアストラル的な覚醒をして神の言葉を受け取るようになります。自らが神の代理人かのように振る舞ったりするわけですけど、そうこうしてうるちに神様の意図をうまく伝えなくなって、そして神様に捨てられてしまうわけです。
まあ、それも全ては学びなのでしょうね。
だいたい、ちやほやされて3年持てばそこそこですけど、7年や10年もすればかなりの確率で神様に見放されて過去の栄光で生きるようになる気がします。
その頃には神様も新しい手足を見つけてそちらと仲良くやっていると思います。
チャネラーや霊能者は、使い捨てにされると最初から覚悟しておいた方がいいと私なんかは思います。
私はそうではない! と思う方もいらっしゃると思いますし、そうではない方も、もちろんいらっしゃると思います。しかしながら、指導霊や神様との付き合いも人間の付き合いと一緒で、ふてぶてしい人や傲慢な人とは付き合いたくないでしょう? それと一緒ですよ。神様が離れたくなるような生活をしていたらさっさと離れてしまいます。
離れないまでも、神様は時空を超えることができますので「早送り」をしてその人の一生をざーっと見て終わりにしてしまうかもしれません。一生の守護を約束したからと言って、必ずしも詳細に毎日付き添ってくれるとは限らないということです。ただしこれは神様のレベルによって、時空を超えられない神様っぽい人、天狗とかそのくらいのレベルですと否応なしに付き合うでしょうし、時空を超えられる神様、天使などは割と大雑把に概観しているような気が致します。
神様や天狗、天使は割と気まぐれで、お気に入りのチャネラー、霊能者がいるとそこでしばらく遊びますけど、そのうちどっかに行ってしまいます。その人に一生付き従う守護霊はもちろんいますけど、その場合、守護霊だけになると多様な神様が入れ替わりに来るという感じではなくなりますよね。最初は面白がって多くの神様が来ていたチャネラーのところでも、チャネラーが得意気になったりして教祖と化してくると離れてゆき、守護霊だけが残ります。それでも守護霊からメッセージが来たりしますけど、守護霊にしても天狗だったり龍だったりいろいろですよね。
まあ、そのように、最初は面白がって多くの神様が出入りしているところでも、やがて神様は来なくなって守護霊だけが一生付き従って見守る、というパターンが多い気が致しますね。
これは個人的な感想ですので、特定の誰かをどうこう言っているわけではありません。
個人的に思うのは、チャネリングとか霊媒としての霊能の技能によってメッセージを受ける段階と、自分自身の頭・・・ というと語弊がありますが、自分自身のスピリットが主体的に動いて自分で肉体を動かすなり幽体離脱をするなりして調査することで自分でしっかりとものを見て結論を出す場合とではかなり段階に違いがあるように思いますね。
1.肉体の頭が主体となっていてスピリットと繋がっていない段階
2.肉体の頭と自分のスピリットが繋がり始めた段階。
3.自分のスピリットが主体になった段階
これらの段階のうち、どの段階でもチャネリングや霊媒というのは可能です。
1+チャネリング → ただのチャネラー
2+チャネリング → 教祖様
3+チャネリング → マスター
表現としてはいろいろとあるとは思いますけど、3番目の段階に至っていなければ教祖様として生きて終わりです。そして、3番目の段階に至るためには一般的には修行が必要になるわけで、それは必ずしもチャネリングとは関係しないわけで、むしろチャネリングは邪魔になったりもします。
1や2の段階で神様に目をつけられてチャネリングや霊媒あるいは教祖様になって、やがて神様に飽きられて守護霊だけが残る、というパターンが多い気が致します。神様は気まぐれですからね。興味がなくなったら割とすぐどっかに行ってしまいます。そして、残されるのは教祖様というわけです。